『劇団員の記憶』

【まばたき通信 第1号】

「キミはマーロン・ブランドだ」

1970年6月17日、水曜日。東京キッドブラザースはニューヨークのラ・ママ実験劇場で『黄金バット』の初日を迎えた。明るい十三夜だった。三百人近い観客がつめかけ、倉庫を改造したせまい実験劇場は超満員だ。

開演5分前。この劇場の名物となっているエレン・スチュアートが、後方の出入り口から鈴を振って登場した。

「東京キッドブラザース、The Golden Bat!」

エレンのアルトの声が場内の張りつめた空気を振動させると、下田逸郎率いるバンドのロックが鳴り響き、ショウイチたち東京キッドのメンバーは「アメリカ、アメリカ」と大合唱。あとは、もう誰にも止められない。ショウイチはついにニューヨークの舞台に立ったのだ。

頭を剃りあげ、上半身裸のショウイチは舞台中央で竹をあしらった和服を身にまとい、太いロープ状の帯を締めて胡坐(あぐら)をかいている。背後にはみんなが両手を千手観音のようにして座っている。「インダスリーバー アアア~」と下田の『インダス川』が低く誦し始めた。

どのくらい時間が経ったのか、あっという間にショウイチがセリフを言う番になった。しかしセリフはまだ決まっていなかったのだ。

東京キッドの舞台では、演出の東由多加が出演者に役柄を与え、出演者はそれにふさわしいセリフを自身が考えて演じていく。というよりも役者それぞれがモノローグとしてしゃべるスタイルだ。役者は与えられた役柄にたいして何を考えているか、役者のそれまでの人生があらわになる。それが観客の心に響く。

ショウイチたちはニューヨークに来て2週間あまり。夜を徹して稽古に励んだが、その間ショウイチが言うセリフは1回も稽古することがなかった。ショウイチはセリフが言えない、不安な日々を過ごした。最年長であり、学生時代からショウイチの舞台を知っている東に信頼されているといえばそれまでだが、器用ではないショウイチからすれば、役者として見放されたという疑心があった。

そんなショウイチだったがセリフを言おうとした瞬間、突然、昨夜スタテンアイランド行きのフェリーボートの甲板でひとり見た月が頭に浮かんだ。すると、雷光が天空を走るようにショウイチのからだを貫いた。

「これだ!」

ショウイチにセリフが降臨した。頭に浮かんだイメージをそのまま言うのだ。

「夕べ、スタテンアイランド行きのフェリーボートに乗った。運賃はたったの25セント。ニューヨークの消費者物価は東京のそれより安い」と英語で言った。

考え抜いたセリフではなかった。ショウイチの口から自然に吐き出されたセリフだった。何人かのお客さんがクスッと笑った。心中(しんちゅう)は緊張感ではちきれそうだったが、お客さんの反応で、混乱していた頭が冷静さを取り戻した。拙い英語だったが、アドリブでその場の雰囲気をとらえ、観客の心をつかんだ。これがライブの醍醐味だ。体がゾクゾクしてきた。

そのあとは気持ちもほぐれ、落ち着いて演じることができた。1時間30分ほどの舞台が終わると、お客さんは総立ち、スタンディングオベーション。アメリカの観客は素直だ。感動をストレートに表現する。

ショウイチたちの熱演がクーラーを壊したのか、クーラーが入っていなかったのか、出演者は全員汗びっしょりだ。

舞台を降りて劇場の出口に行くと、お客さんは俳優を取り囲んで話しかけてくる。ショウイチも10人ほどに囲まれ、口々に何か言って話しかけてくる。よく聞くと、「君はマーロン・ブランドだ」と聞けた。マーロン・ブランドと言われても、それまでの西部劇とは毛色の変わった「片眼のジャック」くらいしか観たことがなかったショウイチは、

「What movie?」

「On the Waterfront(「波止場にて」)」

この時の率直な感想をいえば、この地球上に50億人もいれば似たような奴はいるだろうということだった。彼については変わった俳優ぐらいにしか心中(しんちゅう)思っていなかった。あとで分かったことだが、マーロン・ブランドはアカデミー賞主演男優賞を3回受賞し、その第1作が「波止場にて」だった。

この東京キッドの『黄金バッㇳ』がニューヨークのオフ・ブロードウエイで話題になった1970年という年は、日本演劇界においてもアメリカ演劇界においても、エポックな年であった。『黄金バット』上演の3カ月ほど前、ブロードウエイのマーチン・ベック劇場(1970年当時)では、結婚したばかりの市川染五郎(現在の二代目松本白鸚。芸術院会員、2022年文化勲章受章)が『ラ・マンチャの男』を演じていた。ブロードウエイはアメリカの俳優でさえ夢舞台。染五郎は日本人として初めて全編英語でブロードウエイの舞台に10週間立った。

   ▲1969年当時のショウイチ 

 (撮影:沢渡朔)



【まばたき通信 第2号】

トンボの複眼で綴ろう

「まばたき通信」は、ショウイチが在籍した時代の東京キッドブラザース(当初は「キッド兄弟商会」、以下「東京キッド」)の記録と体験を残しておこうということが発端である。「記憶は消える、記録は残る」と考えている矢田洋が、ショウイチの記憶が消えてしまうことへの危機感からだった。とはいえ「記憶というやつは、すべてを濾過して、つねに美しいものにする」(「半藤一利版画展」で自作に添えた本人の解説)から、どうしても自慢話になったりする。それは避けたい。主役はショウイチだが、「まばたき通信」は彼の思い出話でも自慢話でもない。もちろん小説でもない。ショウイチを三人称にして記録として残そうというものだ。

ところが実際に始めることになると、あれこれ迷走した。思いついたのが、夏目漱石の『吾輩は猫である』だ。矢田洋が福猫「半兵衛」となって東京キッドとショウイチをみるという方法である。それもよくよく考えてみると、小説なら可能でも記録を記すとなると課題がいくつか出てきた。いちばんは名前だ。実名にしないとリアルに欠ける。実名にすればいささかなりとも制約が生まれる。それに、同じことを記しても記憶違いや立場の違いなどから齟齬が生じる。「まばたき通信」をきっかけに感情的な行き違いが起こるとも限らない。ショウイチはなにより摩擦や諍いを嫌うから、たとえ事実であっても相手が不都合なこととなれば断定はせず、婉曲的になる。そうすると、記録性はどうなるのか。

そこで思いついたのが漱石の『吾輩…』の「半兵衛」をトンボにすることにした。トンボには万を数える眼があるという。ショウイチの眼は単眼、各紙誌の記事をトンボの眼として複眼にすれば、立体的に綴ることも可能となろうし、ショウイチ自身の自慢話にはならない、と思考したわけである。

☆☆☆――☆☆☆―――☆☆☆――☆☆☆―――☆☆☆――☆☆☆

ショウイチが東京キッドで活躍したのは半世紀以上も前。それもたったの6年間である。東京キッドは1970年にニューヨークに行き、ラ・ママ実験劇場で公演した『黄金バッㇳ』が爆発的な人気を呼んだ。ニーヨ―ク・タイムズをはじめ全米の各紙誌が取り上げ、東京キッドは一躍、日本では体験できない人気劇団となった。

ところが日本では劇団創立1年でニューヨークに行き、そこで話題になったことが語られることはほとんどない。徐々に過去の歴史となりつつある時代の記憶を、青春の思い出、若者たちの冒険の一コマとして歴史のなかに埋没させてしまうにはあまりにも惜しい。歴史的な価値を残しておくために東京キッドの活動を紹介した記事を「トンボの眼」とした。翻訳はショウイチだ。

過ぎ去った日を懐かしむのを老人というらしいが、老人となったショウイチのたわごとは聞きたくないと言われればニャンともしがたいが、ショウイチたちがアメリカ、ヨーロッパで輝きを放ったことは事実だ。歴史に残る一幕となるかどうか、とにかく幕を上げよう。(敬称略)

【まばたき通信 第3号】

伝説的ヒットの『東京キッド』

ショウイチが東京キッドに参加したのは1969年の春。その前のことは斉藤泰典が次のように語っている。

天井桟敷を辞めたばかりの東(由多加)が、新しい劇団を創立するためにどのように奔走していたかは知りませんが、私と小林由紀子が記憶しているところでは1968年の10月頃、当時、新宿にあった武蔵野茶廊という喫茶店で私たちがお茶を飲んでいたところに忽然と現れ、「斉藤さんですよね、俺、東です。ホラ、なかまにいた、東ですよ」と声を掛けてきた。

小林によれば、ツバを飛ばしながら機関銃のような早口でしゃべり、結局、「いっしょに劇団をつくりませんか? 今までにないような」という東の話に3人が合意し、それから幾日もたたないうちに私と小林由紀子は養成所同期生の山本大弐、中川玲子、1期下の中川節子を伴い、東は西田二郎(たぶン天井桟敷の団員だったと思う)、後輩の松尾佳友、峰のぼるを連れて集まったところからキッドが始まったと思っています。

そして1969年1月、東は新宿のGogo Spot「パニック」で東京キッドブラザースの前身である「キッド兄弟商会」の旗揚げ公演『交響曲第八番は未完成だった』(高橋敏昭原作)を上演した。自分たち若者世代を未完成世代として、居場所のない叫びをロックンロールミュージカルにした作品だった。舞台を観たショウイチは、その斬新さに全身がしびれた。

そのころ、大学紛争、反戦運動、反公害運動などがおこり、高度経済成長をめざして上昇してきた社会に対する大規模な異議申し立ての動きが大きなうねりとなっていた。若者たちはあらゆる場面で異議申し立ての雄叫びを上げていた。

公演中の1月18日には、お茶の水駅周辺、明大や中大付近の道路を学生たちがバリケードで占拠し、“神田カルチェ・ラタン”と呼んで解放区にした。学生たちが占拠していた東大安田講堂には警視庁機動隊8500人が学生排除に出動し、催涙ガス弾4000発を発射して“落城”させ、この年の東大入試が中止となった。若者たちのあいだには権威や権力への反発が充満し、時代を動かす狼煙をあげていた。

こうした時代のうねりのなかで、演劇でいえばいちばん先進的で代表的な存在だったのが、「天井桟敷」の寺山修司と「紅テント」の唐十郎の2人だった。2人はライバルといわれるが、西洋文化に対して自分たちのオリジナル文化で時代を引っ張っていこうという野心は共通している。それを既成の劇団とはまったく違う活動、アングラ(アンダーグラウンド)で展開した。

旗揚げ公演を終えた東はある日、早稲田に顔を出し、ショウイチに「一緒にやらないか」と誘った。ショウイチは「早稲田営倉劇場」で役者をしていたが、役者をめざしていたショウイチは営倉劇場の4人といっしょに、東京キッドに参加することになった。

メンバーをそろえた東は、2作目のミュージカル『東京キッド』を7月31日から、渋谷のステージショップ「ヘアー」(SPACE LOBORATORY HAIR)で公演する。

朝日新聞の劇評では「ラスト近く、突然若い俳優が客席の女性をひきずり出し、ナイフを手に猛然と襲いかかるというショッキングな"事件"が起こる。むろん"殺人"は未遂。あまりの突発事に恐怖と怒りで震える女性に、俳優は『ぼくが本当に君を殺せると思った?』と問いかける。そこに全員の♪ラブ、ラブ、ラブ、ラブ♪の低いコーラスが滑り込んでくる。そしてこの緊迫した問答がそのまま、このミュージカルの締めくくりになるあたりは、なかなか魅力的な『観客参加』の試みである。」と載った。

11月にはアメリカのアポロ11号が人間を乗せて初めて月面着陸に成功、世界が大きく変わる予感があったが、その先に何があるのかまったくわからなかった。無鉄砲で、無防備な若者たちは、あらゆる権威や権力、既成概念といった大人の世界に怒りのエネルギーをぶつけた。倒れても傷つくことを怖れてはいなかった。その先にもっともっと大きな夢、いや愛があると信じていたからだ。

燃え盛る青春のエネルギーの炎は行き場を求め、ショウイチはその場を芝居に求めた。そのときは永遠のように思えた青春が今になって思えばまばたきにすぎなかった。ショウイチが東京キッドで過ごした時間は何だったのか。ただの思い出ではない。「まばたき通信」を記すことでそれが何だったのか、つかみたい。

                   ▲ショウイチが訳し作成した英文チラシ

【まばたき通信 第4号】

「ニューヨークへ行かない?」がキッドを変えた

2作目となる『東京キッド』は小林由紀子の可憐な演技が人気を呼び、10月までのロングランとなった。

斉藤泰徳、深水龍作の2人が演じる場面は舞台を大いに盛り上げた。龍作がセリフを言うと、泰徳が生ギターで下田逸郎作曲の「モーニングサービスで~枕の下のピストルで~、我が心のアフリカ」という歌がつぶやきのように滑り込んでくる。やがて龍作の声がだんだん大きくなり、そしてフーッと消える場面は劇的効果があり、『東京キッド』は伝説的なヒット作品となった。

ショウイチはこのときに小林由紀子、斉藤泰徳と出会えたことを今でも懐かしく思う。そして松尾佳友や龍作の演技には圧倒された。「とくに松尾の感性、しなやかな演技はオレにはない天性のものだ。スターの中のスターと思った」と当時を振り返る。

はじめのころは無我夢中だったショウイチだが、しばらくすると、「ドラマって何だ」「演劇って何なのか」という考えに取りつかれるようになった。ショウイチには、斉藤泰典や小林由紀子、山本大弐、中川玲子、中川節子のように俳優養成所の経験がない。20歳をすぎてから学生演劇で舞台を踏み、我流にひとしく無我夢中でやってきた。発声練習は血が出るほどした。体も鍛えた。だが演技の基礎を学んでいない。暗中模索の時期が青春なのだといってしまえばそれまでだが、演劇の世界で生きていこうと考えたショウイチにはこのハンデは重い。

そんなときだった。舞台が終わり、渋谷駅前の歩道橋を渡っているとき、ショウイチは東につぶやくように言った。

「芝居って何でしょうかね? こうして現実の雑踏の中に立つと、何かむなしいというか寂しさを感じる」

東もぶっきらぼうに答えた。「俺もそう感じるよ」

こうして人生の意味を芝居という表現世界に見つけようとしていた2人だったが、身の置き所のない虚しさ、若者特有の心の揺れをストレートにつぶやく2人でもあった。

それでも公演ともなれば揺れ惑う気持ちのことなどはコロッと忘れ、舞台という非日常的な世界に身をさらけ出す。現実という日常と、舞台という非日常との間を振り子のように行ったり来たり、寄せては引く波のように繰り返す日々が続いていた。

このような状況から抜け出したいのか、ショウイチ自身が脱皮したいのか分からないが、ある日、東と2人でステージショップ「ヘアー」の壁をペンキで塗っていた時のことだった。ショウイチは何を思ったか、ふいに思いついたように東に言った。

「ねえ、東さん、ニューヨークへ行かない」

「いいねェ」

たったこれだけの会話が、東京キッドを世界に羽ばたかせることになった。

もちろん、このときはショウイチも東もニューヨークへ行くことになるとは思ってもいなかった。

思わず口にしたことが若者の夢を現実にする。ときに若者はとんでもないことを口にして自分たちのいる風景を一変させることがある。若いときには未来という可能性がどこまでも広く、それが続いているのだ。自信なんてないが、若さという武器が爆発する。大人たちは暴挙というが、若さとはそういうものなのだ。

ショウイチが言った「ニューヨークへ行かない?」のひとことは、若者を意識している東でさえ、最初は乗り気ではなかったように感じた。あまりにも現実とかけ離れていた話だったのか、生(なま)返事だった。ショウイチだってニューヨーク行きを熱望していたわけでも行く成算があるわけではなかった。説得力には欠けていた。それが、今になってみるとなぜだかわからないが、ショウイチは自らを鼓舞するようにニューヨーク行きの方策を思いつくままに話した。

「英文のチラシを作って、ホテルとか外国人が集まりそうな所に置くのはどうだろう……」。ニューヨークへ行くためにはまず外国人に『東京キッド』を観てもらう必要があると思ったからだ。ショウイチは『東京キッド』のチラシを英文にした。手作りのチラシをホテルなどに置いてもらうと、外国人が観に来るようになった。多い時は1日6、7人が来る。ステージショップ「ヘアー」は小さな空間である。せいぜい入って数十人。そのうち外国人が6、7人占めた。

外国人は舞台に対する反応がビビットだ。ショウイチは舞台の新しい魅力を実感した。ある夜、ドイツ人、イタリア人の観客がいたのでショウイチは、芝居中に英語で「われわれは日独伊の三国同盟を再結成し、世界征服するぞ!」とアドリブでぶつけてみた。もちろん笑いのシーンだったが、驚くような反応があった。ショウイチはニューヨークが一歩近づいたような気がした。

10月15日、日消ホールで『続・東京キッド』を上演、東は翌70年3月24日に講談社6階会議室で行われた「あしたのジョー ファンの集い(力石徹告別式)」を演出した。


【まばたき通信 第5号】

『ヘアー』に出演の依頼

ショウイチたちの『東京キッド』が伝説的ヒットを呼んだころ、アメリカではロック・ミュージカル『ヘアー』が大ヒットしていた。脚本・作詞はジェームズ・ラドとジェローム・ラグニ、音楽はガルト・マグダーモット。1967年にオフ・ブロードウエイで初演され、翌68年にはブロードウエイに進出、ロック・ミュージカルの元祖といわれる。

当時アメリカはベトナム戦争中だった。若者たちは旧来の価値観や性規範に反抗するカウンター・カルチャーを模索し、その一翼を担うヒッピーたちが自由を謳歌していた。

ある日、ヒッピーであるクロードに召集令状が届く。Hair(髪)を長く伸ばすことが、若者たちが送った強い反戦メッセージであった。これをタイトルにした『ヘアー』は全米を席巻した。当時のヒッピー文化をストレートに表現し、無軌道な若者たちが繰り広げるロック音楽とミュージカルが融合した斬新な作品だった。

ニューヨークでヒットしている『ヘアー』は69年12月、渋谷・東横劇場で公演されることになった。脚本は当初、寺山修司が担当したが、彼は天皇制問題なども入れ込み、「原作との大幅な違い」を理由に解雇された。そこで英語版から逐語訳に近い内容で上演された。召集令状が届くクロード役には人気グループサウンズのザ・タイガースを脱退した加橋かつみがつとめた。

この『ヘアー』を上演するために来日していたアメリカ人プロデューサーのベルトランド・キャステリがある日、『東京キッド』を観に来た。彼はその場で、東京キッドに『ヘアー』の上演を

一任するという話になった。

東京キッドでは総会を開き、演(や)るべきか否かで意見が分かれた。小林由紀子は深水龍作に「なんでそんなに『ヘアー』に出たいのよ」と言い、龍作は龍作で「オレはスターになりてえんだ!」と答える。自分の気持ちをこれほどストレートに表現した言葉を聞くのは、ショウイチには初めてのことだった。

結局、『ヘアー』には龍作(バーガー役)と、後にフォークグループのガロのヒット曲「学生街の喫茶店」を歌った大野真澄(ウーフ役)の2人が出演した。


ジム・シャーマンから東へ

日本で『ヘアー』を演出したのはジム・シャーマンだった。彼は東に1冊の本をプレゼントしている。イギリスのロイヤル・シェクスピア劇団で斬新な演出で話題になっていたピーター・ブルックが68年に出版した『貧困なる演劇』だ。

ポーランドの演出家であるグロㇳフスキーが序文を書き、世界の演劇界で話題になっていた。演出家としての東の才能を認めていたジム・シャーマンが贈った親愛のメッセージである。英語が苦手の東はショウイチにそれを渡したまま、旅立ってしまった。


▼「ヘアー」を演出したジム・シャーマンは東由多加にグロトフスキーの「貧困なる演劇」をサインして贈った



【まばたき通信 第6号】

危機からの『黄金バット』

ベルトランド・キャステリから、オフ・ブロードウエイのロック・ミュージカル『ヘアー』の日本公演を一任するといわれた東京キッドの舞台は、外国人からも話題になり、キッドのメンバーは3作目となる『黄金バット:Golden Bat』の稽古に取り組んだ。

黄金バットは昭和初期の紙芝居のタイトルロールである。東が3作目に黄金バットを取り上げた理由はさだかではないが、そのころ映画「黄金バット」が公開され、アニメ版がテレビで高視聴率を得て、人気のヒーローだった。東は若い世代の心の叫びを、黄金バットというヒーローをかりてかたろうとしていたのではないか。

ベルトランド・キャステリが「黄金バットは力強く、美しく、幻想的だ。これで我々はアメリカを手に入れよう」と決意するほどの作品に仕上がった。

しかし、東の思いとは別に足元の劇団では一部の俳優がいなくなり、荒んだ状況のなかで延々と稽古を続けた。69年12月15日からステージショップ「ヘアー」で上演するも3日で打ち切り、劇団崩壊の危機に直面した。その後スタッフを役者に仕立ててスタッフ版『黄金バット』を完成させ、1970年4月29日まで上演、これが大成功を収める。この時から深水龍作の弟、三章が参加した。

 『黄金バット』について、ニコラ・バタイユ(フランスの演出家・俳優)は「素晴らしい。私は心から満足した」と絶賛、佐藤重臣(映画評論家)は「感動した。不覚にも涙を流してしまった。歌がとってもいい」と称賛し、日向あき子(美術評論家)は「若い世代の持つ土俗的なエネルギーが良く出ていた」と評価した。

「振り返ると、東京キッドの舞台として誇れるのは、旗揚げ作品だった『交響曲第八番は未完成だった』と『東京キッド』だと思う。ドラマとしての感動があった。その後の作品はショー化したミュージカルだ」とショウイチは冷静に振り返っている。



【まばたき通信 第7号】

ニューヨークへは片道切符

『黄金バット』公演中の2月中旬、『ヘアー』のプロデュ―サーのベルトランド・キャステリが観劇に訪れ、東に『黄金バット』のニューヨーク上演の話を持ち掛けた。ショウイチが何気なくつぶやいた「ニューヨークへ行かない」という話が現実となったのである。

東は意気軒高で記者会見をステージショップ「ヘアー」で開いた。

劇団創立1年という若い劇団がニューヨークに行く。前代未聞のことだ。日本で人気を呼び、話題となっているからといって、本場ニューヨークに行くなんてとても信じられないことだった。

ある全国紙の記者から、「君たち、騙されているんじゃないの?」という質問が飛んだ。

「いや、ここに契約書がありますから」と東は自信たっぷりに答えた。

ところが、アメリカへ渡航する寸前になってアメリカのプロデュ―サーから、ベトナム戦争の激化でニューヨーク行きが取りやめになったという連絡が入り、大混乱に陥った。友人、知人に「ニューヨークに行くぞ!」と言った手前、引っ込みがつかなくなった。

その時の真相を東は著書『地球よとまれ、ぼくは話したいんだ』(毎日新聞社刊)で次のように語っている。

 ---- 記者会見で大見得を切ったが、電話帳ほどある分厚い契約書は英語をまったく理解できなかったが、何と書かれていようが構わないとサインした。1か月後に下田逸郎、制作の山田容子の3人で渡米した。滞在費用は全て提供してもらい、シンデレラ・ボーイの気分だった。-----

制作の山田容子はまだ17歳だった。毎日が楽しくて仕方がないといった感じで、愛くるしい笑顔で周囲を和ませていた。彼女は絶対音感の持ち主で、電子オルガンの担当だった。

しかし3週間待っても劇団を呼び寄せようという動きが感じられない。東が談判に詰め寄ると、プロデュ―サーは、ベトナム戦争を始めたニクソン大統領を強く批判し、経済状況の悪化が予期される、と説明した。「芝居に投資するエンジェル(投資家)はいないだろう」とも言った。公演中止を宣告したのである。

アメリカにおける興行システムの厳しい現実を目の当たりにして、東の夢は一気にしぼんだ。知識として理解はできていても実際に経験するとどん底に落とされたような思いだった。

ここでめげてはいられない。日本で記者会見まで開いて華々しく見送られて渡米してきたのだ。公演は中止になったと、おめおめと帰るわけにはいかない。

金さえあればアメリカに来られるんじゃないか。売れるものはすべて売って、残りは借金してでも来よう。ヴィレッジに前衛劇で知られている「ラ・ママシアター」があることを思い出し、オーナーのエレン・スチュアート女史に東京キッドの公演を頼んでみようと思った。エレンは東の申し出を快諾し3週間後に公演許可を出してくれた。

このあとのことは柚木淑乃が書いた『帰ってきた黄金バット』(集英社、2006年9月刊)に詳しい。東京キッドに参加し、その後作家となった永倉万治の妹が兄の足跡をたどったノンフィクション・ノベルである。

同書によると、エレン・スチュアートのラ・ママ実験劇場での上演許可を得た東は東京に戻る。昼間はアメリカへ行くための資金調達に駆けずりまわり、夜は稽古という毎日が続く。アメリカ公演に必要な資金は大学2年生の長井礼子が中心になって調達した。ステージショップ「ヘアー」を知人に引き取ってもらい、すべて売り払っても足りず200万円ほどの借金を背負っての渡航となった。

1970年5月30日、15人はニューヨークへ片道切符で旅立った。東は当時、東京キッドの姿を〈十五少年漂流記〉にたとえることがあった。これは東自身が少年時代の愛読書のひとつに『十五少年漂流記』(ジュール・ヴェルヌ作)だったこと、旗揚げに参加していたメンバーがよく「十五少年漂流記をやりたい」と語っていたことから言い始めたことだった。

東はインタビューに答えて「青春と云うのはひとつの事業だと思っています。不可能を可能に変えるという……」

ニューヨークへ飛び立つ前の3月31日、日航機「よど号」が赤軍派学生9人に乗っ取られ韓国金浦空港に着陸した。乗客ら103人を解放後、学生たちは北朝鮮へ行くという日本で初めてのハイジャック事件が起きた。大阪・千里丘陵では「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会が開催された。前年の7月20日、アームストロング船長らが乗り込んだ米宇宙船「アポロ11号」が、人類史上初の月面着陸に成功。月面に降り立った船長は「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った。多くの日本人がテレビ中継で、船長が飛び跳ねる様子を見た。それから4カ月後の11月14日に発射されたアポロ12号が持ち帰った「月の石」が万博会場のアメリカ館に展示された。それを見るために長い行列ができた。


▼東京キッドに参加し作家となった兄永倉万治の足跡をたどる柚木淑乃の『帰ってきた黄金バット』

(装丁◆奥村靫正/集英社)



【まばたき通信 第8号】

稽古漬けの毎日、セリフも浮かばず不安な前夜

ショウイチたちはサンフランシスコ経由でニューヨークへ向かった。機内で隣に座ったアメリカ人が「Where are you going?と聞くから誇らしく“Far away, New York!”と言ったよ」とショウイチは昨日のことのように話す。

ニューヨークに到着したのは5月31日。ラ・ママ実験劇場で6月17日から5日間、公演することになった。

ラ・ママ実験劇場は、1919年にシカゴで生まれたエレン・スチュワートが61年にニューヨーク・イースト9丁目321番地に小さなカフェ付き劇場「カフェ・ラ・ママ」を開設したことから始まる。当時は収容人数がたったの25人という小空間だった。

このころからニューヨークでは小劇場が続々と誕生し、オフ・オフ・ブロードウエイと呼ばれる演劇運動が台頭し、エレンはその中心的存在だった。そして68年にラ・ママの本拠地であるイースト東4丁目74番地にロックフェラーやフォードの財団などから助成を受けて建物を購入。1階を「ザ・ファーストフロア・シアター」と呼ばれる小劇場、2階はクラブ、アーティストのためのスタジオを設けた。

オフ・オフ演劇のメッカであるラ・ママ実験劇場での公演に向け、ショウイチたちの稽古は気負いというか鬼神迫るものがあった。初めは全編日本語で上演する予定だったが、観客のことを考え、日本語6割、英語4割に手直しした。

2人のボイストレーナーが指導してくれたが、「NO! NO!」のだめだしの連続。声はガラガラ。英語で歌うと劇場のアメリカ人スタッフに「それは日本語か?」と揶揄され、気分が撃沈する毎日だった。


「No!No!ゴジラ」

食事ものどを通らなくなるくらい特訓、特訓。ショウイチの顎はガクガクになった。アメリカ人はアクセントを付けるが、日本語は平音だ。ショウイチは言葉の難しさを痛感した。

そんなある日、なぜか、女性ボイストレーナーがアパートにショウイチを食事に招いたことがある。彼女は料理を作りながら「ガジラ」と言ったので、ショウイチは日頃のお返しとばかり「NO! NO! ゴジラ」と何度も言い直させた。

ショウイチたちは劇場地下にある大道具置き場のすき間で寝起きした。稽古が終わるとそこで泥のように眠った。地下室のねぐらと稽古場、コインランドリーを行き来するだけだった。

1日2ドル支給されたが、ホットドッグ1個が1ドルもした。しかし若さというのはすごい。翌日になると活気がみなぎり、元気満々になるから不思議だ。青春万歳である。

また、ヒッピーのような同年代の男性が、稽古場にたびたび姿を見せ、長身を折り曲げるようにして膝っ小僧を抱えて見ていた。

いよいよ初日を迎える前の晩、ショウイチたちは全員でフェリーボートに乗った。中天に十三夜の月がかかり、その下に自由の女神像が見えた。ショウイチはひとりデッキでセリフを考えていた。

その時だ。船上から「ヤダ―、Nちゃん」。女優の甘い嬌声が聞こえた。その声の女優とNの2人の姿を見つめる東の凝然とした顔。それをショウイチは離れてみていた。

「明日、幕を上げるというのに、これは何なんだ」。ショウイチはこの光景を脳裏から取りはらうように神経を集中し、自分のセリフ(ストーリー)を考えることにした。しかしセリフが思いつかない。時間だけが刻々と過ぎていく。ショウイチは不安な夜を過ごした。

▼ラ・ママでの稽古の合間に



【まばたき通信 第9号】

クライブ・バーンが絶賛

1970年6月17日はキッドにとって記念すべき日となった。『ゴールデン・バット』の初日である。

開演5分前。劇場の名物となっているエレン・スチュアートが後方の出入り口から、鈴を振って登場。エレンのアルトの声が場内の張りつめた空気を振動させた。

「東京キッドブラザース、The Golden Bat!」

それを合図に下田逸郎率いるバンドのロックが鳴り響き、「アメリカ、アメリカ」の大合唱。舞台は進行し、やがて頭を剃りあげ、上半身裸のショウイチが舞台中央に胡坐をかき、後ろにはみんなが両手を千手観音のように座っている。そして下田の「インダス川」を低く誦す。舞台が終わるとお客さんは総立ち、ショウイチたちは手ごたえをつかんだ。

この初日の舞台を観た朝日新聞の林特派員は「国産前衛ミュージカル ニューヨークで初公演」と報じた。


------ 幕を開けた『黄金バット』はズキン、着ながし、剣道着、坊主姿などの日本風の装いと、エレキをがんがん鳴らしたてる新鮮なロックンロールの取り合わせで、まず観客のドギモを抜いた。

つめかけた観客の声を総合すると、『黄金バット』と、ニューヨークで長期興行に成功している「ヘアー」との対比である。無主人公、反体制的な構成で、ロックンロールをバックに使っている点では、『黄金バット』は『へアー』に近いが、彼らに驚きを与えたのは「西洋的な容器に盛られた日本の民俗情念」であり、東と西とを融合した音楽的、演劇的な実験であったようだ。

能面と能舞台を使い、「花」「雪」「風」を合言葉にした狂言風の様式。ご詠歌の合唱にみられる仏教的な空しさ。タイマツを使って、ハダカで踊るお神楽の原始的な熱情。全員、声をあわせる大漁節の土俗的迫力。これらは最近、とみに東洋的な生活にあこがれているグリニッチ・ビレッジの“若い世代”が求めているものに通じ、舞台と観客の間にある言語の障害はあまり問題にならなかったように見える。(朝日新聞6月25日付)


観客の反応は驚くほど活発だった。芝居が終わってからも熱狂して役者に抱きつく。ショウイチにはカンサス大学の女子学生5、6人が、バスタオルを持って走ってきて体中の汗をぬぐってくれた。女の子にモテモテのショウイチはつい頬がゆるむのをこらえ、まだ芝居は始まったばかりだと気持ちを引き締める。

23日までの予定が7月5日まで延長され、17回公演となって喜んでいると、いつものように劇場にお客さんを入れる前にエレンが来て言った。

「今夜、ニューヨーク・タイムズのクライブ・バーンズが観に来る。もし彼が明日の劇評を書かなかったら、つまり芝居がよくなかったら、皆さんは荷物をまとめて即刻、日本に帰りなさい」と。

エレンのこの言葉に、ショウイチたちは奮い立った。この時ほどキッド全員の気持ちがひとつになったことはなかった。クライブ・バーンズは興業の成功を左右するほどの劇評家なのだ。ちょっと気の利いたことを書ければ評論家と名乗れる日本とは違う。アメリアでは作品の成功を左右するほどの鑑識眼と批評性をもたないとなれないのだ。ニューヨーク・タイムズ1紙の、それもクライブ・バーンズというたったひとりの批評が、上演作品の成功を左右するとはずいぶんいびつな感じだが、どうやら事実のようだった。

その日の上演後、地下室に戻ると小林由紀子が上気した顔で「真ん中に座っていたお客さんがクライブ・バーンズに違いない。私はそう思って彼に賭けたの」と言った。その夜は興奮して寝付けなかった。人生で一番長い日となった。

翌日、ニューヨーク・タイムズ(6月27日付)を持って来た東が「ショウちゃん、これ訳して」と言った。劇評が載っていたのだ。「私はラ・ママ実験劇場へ期待せずに『ゴールデン・バッㇳ』を観に行った。彼らは日本の若き大使だ」とある。

ワーッと歓声が上がり、誰もが「やった!」と思った。東も下田もニコニコしている。

あなたは期待していなかったものをカフェ・ラ・ママで期待することになる。私は最初まったく期待しないで観にいった。これは“ヘアー系統”のいわゆる“族”のミュージカルだが、完全にオリジナルである。

上演グループは東京キッドブラザース(以下、東京キッド)といい、1968年初めに結成した。オフ・ブロードウエイのプロダクションと契約したが、結局は破棄され独力でニューヨークにやってきた。

彼らは魅力ある人たちで、ミュージカルは一種のライフ・スタイルの形をとっている。彼らは明らかにヒロシマ以後の世代なのである。

彼らはあたかも一輪の花であり、そして全世界が彼らの庭先であるかのように愛を差し出す。

東京キッドは観客参加を促しているが、リビング・シアターのような人をいらいらさせるものではない。とてもソフトで紳士的で、やさしさに包まれている。

一場面では1組のカップルがやさしげに愛の行為をまねる。2人はヒューマニティーにあふれて、甘美に愛の行為をする。私はこれまでに、このような性的交わりを舞台で観たことがない。

このミュージカルは、愛、平和、友愛、お互いを理解し合うというような一般的なテーマは別として、ただ積み重ねられているのではない。大部分は日本語で時々、キャストが観客に日本語を話してみるように促す。その雰囲気はハッピーでくつろいでいるのだ。シモダ・イツロウの音楽自体がロックで、これさえも特定の日本のロックのアクセントがつけられている。

この芝居の作者のヒガシ・ユタカによる舞台化は目もくらむばかりで簡素である。『ゴールデン・バット』は現在ばかりでなく明日にも通じる。これは長く気高い演劇伝統の国から来ているのだからということを忘れてはならない。私はいつも日本に行きたいと思っているが、『黄金バット』を観てその思いをますます強くしている。日本の若者による、この上なく素晴らしく、歓迎すべき大使なのだ。(クライブ・バーンズ)

エレンがいうようにニューヨーク・タイムズのクライブ・バーンズの記事は、大きな反響を呼んだ。「ショー・ビジネス」(6月27日号)にもショウイチにスポットをあてて絶賛した。


------ 「ショウイチ・サイトウが語る、結婚よりも俳優の道を選んだがための恋の痛み。それはとても美しかった。真の演劇人ともいうべきショウイチ・サイトウのすばらしい顔の表情と、全身で表現する英語は群を抜いていた。」

『ゴールデン・バット』には、筋らしい筋はない。「日本」「太平洋」「アメリカン・ロック」「祭」の四つのシーンごとに「アメリカの夢」「御詠歌」などのテーマを設定したロック・ミュージカルだ。東は若い世代の希望や夢などを不死鳥のような『黄金バット』に託した。だからアメリカの若者にもわかりやすく、若者特有の熱気は伝わったのだろう。(原文はラ・ママ実験劇場に)


ニューヨーク・タイムズをはじめ「ビレッジ・ボイス」、「キュー」などの紙誌などが「ヘアーにつぐ斬新なミュージカル」「日本の若者の独創性」「東と西の融合」などの賛辞で紹介した。

【まばたき通信 第10号】

「ここはアメリカ」と彼女

毎晩、キッドの芝居を観に来てくれたアメリカ中西部のカンサス大学の男女30人ほどが、ラ・ママ実験劇場で卒業公演をした。ショウイチはそのなかのひとりの女の子と仲良くなり、彼女に「I ㏂ proud of you」と言われた。ニューヨークで初めて彼女と、ラ・ママ実験劇場のスタッフたちに認めてもらえた。

公演中は連日のように稽古漬けだったが、それでも稽古のない日があった。その日は彼女と初めて国連ビルにデートした。その夜のことだった。彼女が泊まっているホテルまで送って行く途中、ショウイチは彼女と坂本九の「上を向いて歩こう」をいっしょに歌った。アメリカに来る前に「上を向いて歩こう」は「スキヤキ」のタイトルで大ヒットしていたからだ。

楽しいデートが終わり、ショウイチが「Good night!」と言って踵を返すと、彼女は言った。

「ここアメリカでは男の子が女の子を送ったら、帰り際にキスをするものよ」

なんと素晴らしい習慣なんだ!(日本でもぜひこの良き習慣を取り入れよう、と思った。その後、東京に帰ってこの経験を思い出し、日本の女性にキスを迫ったら、「教養はなくても理性は残っているんでしょ」と言われた。)

カンサスの大学には妹のように可愛かった別の学生がいた。

「ショウイチ、正一という名前はどういう意味なの」と聞く。

「The rightest man in the world」(世界で一番正しい男)と答えると、「Oh、No!」

こんなこともあった。ラ・ママ実験劇場の入り口の石段に座っていると「What time is it?」と言ったのでチラッと時計を見て、

「This time tomorrow」(明日の今頃)と言うと、怒って追いかけて来た。彼女たちとはいつか同窓会をしたいと思うほど若き日の思い出となった。

彼女たちがバスでカンサスに帰る日、ショウイチは深水三章と2人で見送りに行った。彼女たちは泣きながら何度も投げキッスを送ってきた。ショウイチと三章は凝然として直立不動で見送るだけだった。たった1週間の儚い恋だったが、まぎれもなく1970年の青春となった。


男女8人の弁護士と

舞台がはねた後、ラ・ママ実験劇場のスタッフから「話をしたいというお客さんがいる」と言われたことがある。

お客さんは中年の男女8人。全員が弁護士で、ニューヨーク大学で演劇を学んでいるという。よく映画の法廷シーンで弁護士が舌鋒鋭く反対尋問をしているが、その時に演劇が役立つのであろうか。やはり芝居ではセリフが大切な要素。役者が言うセリフで芝居が前に進んでいき、その舞台上に人間が生きる。ここに舞台の感動がある、という思いがした。

また、見るからにインテリ風の黒人男性が近寄ってきた。「俳優をやっていたが今度ジョンズホプキンス大学医学部に入学し、人生をリセットする」と言う。アメリカという国はなんと幅広い選択肢があるのだろう、と実感した。






【まばたき通信 第11号】

ジェローム・ロビンスと握手

ニューヨーク・タイムズに掲載された記事の反響は凄かった。これをきっかに他の多くのメディアが取り上げ、ラ・ママ実験劇場での公演は連日、超満員となった。劇場に入りきれずに熱狂した人たちが路上にあふれ、隣のレストラン「フィービス」に流れ込んだ。店のオーナーは東京キッドのメンバー全員を無料にするほどだった。

店ではテーブルや椅子を取り払って客を入れ、全員が立食パーティースタイルとなった。夜遅くまで「Cheers! Toast!」の連続。お客さんとは誰彼かまわず10年来の友人のようだった。

この間、稽古を観に来ていたヒッピー風の男がラ・ママ実験劇場でギリシャ悲劇を上演した。それを観たショウイチは斬新な演出に「彼は天才だ!」と思った。これぞ演劇だ、ドラマだ。感動こそが演劇の命だ、という思いを強くした。

ショウイチには感動すると心が震え、とても幸せな気分になるという妙な癖があった。この時がそうだった。「生きていて良かった」と心底思った。

もう一度観たいと思っていると、マンハッタン郊外の女子大の講堂で上演すると聞いたショウイチは、ラ・ママ実験劇場の照明担当のバリーに頼んで車で連れていってもらった。

広大なキャンパスにはリンゴがあちこちに熟れている。バリーが照明をセッティングする間、ショウイチはキャンパスに座って待った。見上げると赤いリンゴがたわわに実っている。そういえばニューヨークの愛称はビッグ・アップルだったと思いながら、1個もいでガブリと噛んだ。甘酸っぱい味が口の中に広がった。

向こうから女子学生が3人、本を小脇に抱えてやって来た。見られたか、これはまずい、何かひとことある⁈ 咄嗟に彼女たちにウインクして指を口に当て、シッーと言った。彼女たちはクスクス笑いながら通り過ぎて行った。彼女たちも理解している。これも若さの特権っていう奴だ。

こんなことがあった後に再び彼の芝居を観たのだったが、やはり彼は天才だった。彼はアンドレイ・シェルバンといい、78年にはニューヨークのリンカーンセンターで『桜の園』(アントン・チェホフ作)を演出した。その後劇団四季に招かれ、日生劇場で『桜の園』を上演した。コロンビア大学の教授になったとも聞いている。

ショウイチはニューヨークの演劇にどっぷりつかり、貧しいながらも幸せの時間を過ごしていた。そんなある夜、芝居が終わって舞台を降りようとすると、2人のアメリカ人男性が近づいてきた。そのうちのひとりがもうひとりの男性を「こちらはジェローム・ロビンス氏です」と言った。

「えッ! あのブロードウエイの神様」

有名な『ウエスト・サイド物語』のジェローム・ロビンスだ。ショウイチが呆然としたのはいうまでもない。

驚いているショウイチにジェローム・ロビンスは笑顔で「Congratulations!」と言って握手を求めてきた。信じられなかった。ニューヨークのレジェンド、いや演劇の神様が目の前にいて握手してくれている。穏やかで温かみのある小柄な人だった。夢を見ているような時間が流れた。ずっとこのままでいたい、と思った。

ショウイチは帰国後、津野海太郎が書いた『ジェローム・ロビンスが死んだ ミュージカルと赤狩り』(平凡社、2008年6月刊)をむさぼるように読んだ。



【まばたき通信 第12号】

シェルダン・スクエア・プレイハウスで5カ月公演

疾風怒涛の2週間だった。ラ・ママ実験劇場での公演が終わりに近づいたころ、ブロードウエイのレジェンドといわれるプロデュ―サーら14人がブロードウエイの劇場での公演に名乗りを上げてくれた。

舞台がはねたある夜のことだった。ショウイチたちは大道具で雑然としているラ・ママ実験劇場の地下室で、今後どうしようかと話し合った。いろいろな意見が出た。ある女優が「日本人なんだから、即刻、東京へ帰るべきよ」と言うと、東が「斉藤さんはどうですか」と訊く。

ショウイチはポーカーフェースで「僕はどっちでもいいですよ。東さんが決めることですから」といった。東は、こいつはわかっているという顔をした。ショウイチは内心、「残ってやるに決まっているだろう」と思っていたのである。

最後に作曲家の下田逸郎が「いいじゃない、どこまで上がれるか、やってみるのも…」というひと言で、ニューヨーク公演を続けることにした。運命の分かれ道だった。下田に感謝したい。

結局、ブロードウエイには上がらず(あまりにも恐れ多いと思ったのだろう)エレン・スチュアートがすすめるオフ・ブロードウエイで演(や)ることにした。

話題を呼んだ『ゴールデン・バッㇳ(Golden Bat)』は、マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジにあるシェリダン・スクエア・プレイハウス(Sheridan Square Playhouse)で、7月21日から12月22日までの約5カ月、上演することになった。

プロデュ―サーは、温厚で誠実な人柄のカーミット・ブルームガーデンとアーサー・カンターだった。ブルームガーデンは1949年にアーサー・ミラー(1915~2005)の『セールスマンの死』を初めてブロードウエイで上演した。そのほか『エクウス』(ピーター・シェイファー)、『橋からの眺め』(アーサー・ミラー)、『アンネ・フランクの日記』などを手掛け、亡くなった時にはニューヨーク・タイムズの一面に載り、“静かなる戦士”と呼ばれた。

演出はアクターズ・スタジオを創設したひとりであるエリア・カザン(1909~2003)である。主人公のウイリー・ローマンをリー・J・コップが演じた『セールスマンの死』はトニー賞とピュ―リッツア賞を受賞した。

日本を片道切符で出発した時にはこんなことになるとは想像もしていなかった。公演では2幕を1幕にするため10日間ほど稽古を続けた。初日の7月21日にはABCテレビで紹介され、著名なニュース解説者が「何を隠そう、私はゴールデン・バットを3回観た」と言った。

シェリダン・スクエア・プレイハウスはニューヨークの若者文化の中心であるグリニッチ・ヴィレッジのど真ん中にあった。すぐそばにニューヨーク大学やワシントンスクエア公園があり、ラ・ママ実験劇場から10分ほどの距離にあった。ここでもお客さんがあふれ、補助椅子を出しても間に合わず、若者は通路に膝っ小僧を抱えて観た。

劇場がかわったことで、眠るところは地下室からホテルに移った。1日2ドルから5ドルになった。テキサス出身のお嬢様ヴィッキーが交渉してくれた。

ショウイチは、長倉恭一、深水三章と同室で、奥の一部屋をもらった。こうして男3人の生活が始まった。キッチンが付いていたので、しばらくは毎日が焼き肉だった。肉は驚くほど安かったが、1週間ほど毎日肉を食べると、さすがに飽きてきた。

ある夜、照明を担当するバリーの部屋に招待されたことがある。ジャズのレコードで一杯だった。「ダスティン・ホフマンが売り出しのころに照明を担当したが、彼は毎晩、演技を変えていた。そしてダスティン・ホフマンは友人のアパートの冷蔵庫の前で寝泊まりしていたんだ」とバリーが話し、「ショウイチ、チャンスはあるよ」と強く激励された。

また、ジェンニファーという若い女性とも知り合った。イェール大学を出てタイム・ライフ社の記者をしていた。母親は有名なテレビ女優で、彼女は小さいころ、その母に連れられてあるパーティーに出掛け、若き日のマーロン・ブランドらに会ったという。マーロン・ブランドは幼い目にもオーラで光輝いていた、と話してくれた。その後彼女はロサンゼルスタイムズの記者になった。

ジェンニファーは「ジョン・レノンは仕事の関係で来られなかったけど、オノ・ヨーコさんが観に来られた」と言っていた。ほかにもアカデミー賞女優やニューヨーク市長も来てくれた。

東は東、西は西、シェリダン・スクウエア・プレイハウスと『ゴールデン・バット』の両者は楽しい出会いをする。半透明の幕の背後からくるくる廻るパラソルと、2つの素晴らしい文化を持つ音楽に奏でられたロック・ショーを演じるのは東京キッドブラザースという若い日本人男女の熱い集団だ。

ショーは若きベルナルド・ブレヒトを大いに刺激した映画大国アメリカ、そのアメリカを夢みながらもアメリカの占領下の日本で成長したひとりの少年の心の軌跡である。少年は“ゲーリー・クーパーではなくてマッカーサー”が来たことに失望する。この点については、私たちとの間に相違点はないだろう。

アメリカ人の観客のための日本語レッスン、地理のレッスン(北海道はとても寒いが九州は暑いというような)があり、また日本のテレビにチャンネルがいくつあるか知っているか、コカコーラがどのくらい飲まれているか知っているか、といった質問とは対照的にちょっとした愛の行為があったりする。

クレージーで感動的で、わくわくするシーンが数多くある。それらのシーンの根底にあるのは、アメリカ。私たちが愛するアメリカ、時として大嫌いなアメリカである。

観客席の通路を駆け抜け観客とのかけ合いのシーンが数多くあるが、クライブ・バーンズがすでにニューヨーク・タイムズで述べたように、あのリビング・シアターが今日的状況に対する敵意を表現するというよりは、むしろ愛と笑いという雰囲気のなかで進められていく。

出演者の大半は、面白くて興味深い英語を操り、ちょっと変わった思いもよらない瞬間や暗示的な物言いなどから、誰もがこのショーを理解できる。全員がチャーミングで、そのなかでも22歳のユキコ・コバヤシは一瞬大きく見えるほど秀れている。

「ハーイ、おじいちゃん」と、彼女は私の髪の毛をくしゃくしゃにしながら「お祭りだ、あなたはハッピーですか?」訊く。

「祭り? ハッピーではない」と言いたかった。というのも、彼女が生まれる3年前、私は日本に爆弾を落としたからだ。もしも当時だったら私は再び爆弾を落とすだろうけれども、いま私は初めてそうしたことを心からすまなく思ったのである。

『ゴールデン・バッド』の作・演出はユタカ・ヒガシ、音楽はイツロウ・シモダである。カーミット・ブルームガーデンとアーサー・カンターがこの愛らしい小さな花をオフ・ブロードウェイに上げたのは素晴らしいことだ。この東京キッドブラザースを最初にニューヨークに呼んだのはエレン・スチュアートということも認めなければならない。(ジェリー・トールマー)



【まばたき通信 第13号】

『ヘアー』の作曲家と

オフ・ブロードウエイに移ってから毎晩のようにヒッピー風の若者が観に来た。ある晩、彼と話しながら歩いていると、ある大きなビルに入って行く。彼のオフィスだった。

彼はミュージカル『ヘアー』の作曲家で、「When The moon~」のアクエリアス(水瓶座)は、世界で1100億円ものレコードを売り上げた。その人なのである。

また、ブロードウエイで大ヒットしているミュージカルの主演俳優も観に来た。立派な彼のホテルの部屋に行ってお互いにギャラの話になったことがある。

ショウイチが1日5ドル(1ドル360円時代)と言うと、彼は何百倍ももらっていた。お互いに驚き「ワオゥー!」「ワオゥー!」の言葉しかなかった。

公演は月曜日が休みだった。火・水・木・金は夜公演、土・日は昼夜2回公演で、週8公演だった。ホテルと劇場を行ったり来たりだったが、少しずつニューヨークの街中、特にブロードウエイに出掛けるようになった。金がないからひたすら歩いた。金が要る時は昼食を抜いて堪えた。情けないとは思ったが惨めではなかった。青春という宝を持っていたから。


「小僧、邪魔だ!」

ある休演日にショウイチはユージン・オニールの『ならず者の月』を観に行った。酒飲みの中年男と隣家の未亡人とのほのかな恋の話。2人はいつも行き違いでなかなか発展しない。男優は映画でよく見かけたジェイソン・ロバーツ。取り立てて何の事件も起きないが、彼の存在感、演技に魅了される。それから毎週のように観に行った。

いちばん前の席で、喰い入るように観た。ショウイチは頭を剃り上げ、白いシャツとジーンズという一見、異様ないでたちだ。何回目かの日、舞台のジェイソン・ロバーツの眼とショウイチの眼がカチッと合った。「小僧! 邪魔だ」というように思ったのではないかと感じ、それ以後観に行かなくなった。

芝居がはねた後もブロードウエイに行き映画のナイトショーを観た。帰りは深夜。ブロードウエイから歩いてホテルに帰ったが、何もやばいことはなかった。もっとも頭を剃ってジーパンとTシャツ1枚では強盗も「早く消えろ、この貧乏人め!」と思ったかも知れない。

ホテルの外ではパーン、パーンと銃声が2発。慌てて部屋の明かりを消したこともあった。

若者たちはほかのすべての旗の上に一つの旗をたてた。

若者たちを信じない人たちは海賊船のジョリー・ロジャーのようだと考える。海賊的な略奪はこの一つの旗のもとで犯される。

若者を尊重する人たちは、シンボリックな旗を、使い古された文句や、死滅しつつある希望を再び生き返らせる腕章としてみる。

もしこれらの文句が何かを意味するなら、人間のヴィジョンは人間存在の地平線に延び、地図の上に揺れ動くいくつかの勝手な国際線によって目隠しされるべきではないということを意味する。

これらは今、日本から来た、流れるような奔放な自由形式で魅力的なミュージカルを形作っているテーマである。

『黄金バット』は目に訴え、心に訴え、感覚に訴える。その基盤となっている事柄には親しみがもてる。ほとんど『ヘアー』がオープンしてから、若者が舞台化した考えはさびた流行となった。

ベトナムで戦争をやめよ。言論の自由、自分の存在証明のために戦え。裸になってラブをしろ。これらは『黄金バット』が違いをつくっている基本的な政治的演壇であり、『黄金バット』を輝かせている。

ヌードによるラブシーンはエロティックである。だが恋人たちはやさしさの中でより裸で話しかけてくる。たとえようもない美しさだ。

また、別のシーンではひとりの少女が鳥のように舞台を飛び交い、茨の中で生まれた苦痛を訴え、「私はお母さんがにくい」と言ってつばをはく。

このとき、もし若者が航海をしようとするならば若者は、自分たちを規制し、家族というもうひとつの鎖を切る絶望的な必要性について、何かしら感動的で力強いものを知るのである。

このショーは見えない瞬間で満ちている。万がひとつも『黄金バット』が娯楽に執着したり、こぎれいなプロフェッショナルでないと説明している。

劇団員の年齢は25歳以下で、東京キッドブラザースというアンダーグラウンド・シアター・グループとして2年前に創設された。いまや“ラ・ママ・東京劇団”として指定されている。

英語はその夜のことばとして、日本語よりちょっぴり好感がもてる。しかし両国語はユーモアがあり、早がわりのコスチュームのようである。

いくつかの独白場面はカットできるかもしれないが、なかもでショウイチ・サイトウによる、この世のものとも思えない緊張感で語られる独白はたとえようもない美しさがある。ひとりの男の恋の痛みである。淡々と、いかに自分がひとりの少女を愛し、彼女のもとを去り、そしてそのとき彼女に1通の手紙を書いたかを話す。

多くのダンス・ナンバーは魔術的レベルだ。キャストは全体に勝利者であり、また悪魔のドラム、スクリーンのうしろにいるグループ(バンド)も電流をかけられたような衝撃だ。『黄金バット』は真夏のニューヨークでただただ有り難うといえる一服の清涼剤である。(T.E.カレム)




【まばたき通信 第14号】

ニューヨーク・タイムズ1面に劇評

8月16日付のニューヨーク・タイムズ1面に「A Love Letter From Tokyo」という見出しで劇評が載った。記事を書いたのは、ウォルター・カーという同紙専属の劇評家だ。

彼は詩人、劇作家、演出家で、ニューヨーク・タイムズ紙の演劇批評を17年間担当し、またサミエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を世に送り出した。演劇批評でピュリッツァー賞、アメリカ演劇の殿堂入りを果たしている。

ブロードウエイの名門リッツシアターは、彼の名を冠して「ウォルター・カー劇場」と改められた。

彼はすぐれたブロードウエイ作品を表彰するトニー賞は受賞していないが、名を冠した「ウォルター・カー劇場」はトニー賞を最多受賞している。ブロードウエイの名門劇場である。

▲ニューヨーク・ブロードウェイにあるウォルター・カー劇場



演劇とはおそらく不可知性、換言すれば予知できないところから始まるのだろう。

『黄金バット』にはひとつの時間の流れがある。温かさ、モスライト、そして圧倒的な日本のロック‣エンターテインメントがいま,シェリダン‣スクウエア・プレイハウスで俳優たちの頭上を文字通り飛び越えている。効果音は文句を付けようがないほど素晴らしい。

ひとりのむっつりとした髪を剃った若者が、着物のひだをとり、古の賢人のように謙虚に、誰もいない舞台で胡坐をかいている。そして、かつて彼が愛した、しかし結婚はしなかったその少女の身の上に起こったことを話し出す。

彼は「どうか俺のことは忘れてくれ」と肺胕をつくようにつぶやき、彼女を自分の元から去らす。やがて彼女は夫となる人を見つけた。月日がたつと、かつての愛の記憶は日一日と鮮明になっていく。若者はいまやはげしく、しかし静かに彼女を愛している。夫の元を去り自分のところに戻ってくるように頼み、彼女に1通の手紙を書く。

ながく封印し、少ししわになった手紙を、彼は帯の間にしまっていた。それを手探りで探し、すべての筋肉が同時に逆方向に収縮するかのように両肩をはげしく打ちふるわせ、打ち消せない苦痛の中で観客に向かってゆっくりと歩き出す。

そして近くに座っている観客に、彼に代わって手紙を出してくれる人を探している。表面だけを見ていてはまったく意味がない。

手紙はなぜ疲れてみえるのか、どうして破れているのだろうか。彼は今宵まで、あたかも私たちの誰かが現れ助けられることを待っていたかのようである。

手紙は自分でポストに入れることができる。心理的にその手紙を手離すことも不可能ではない。しかし観客のひとりが手をさし出して受け取るや否や、彼はその手紙と別れるのである。

どんなに緻密な考えでもわずかにブロークンな英語でも理解できるかぎり、またしぼり出すような声とその背後の途中まで伸びた両手までがいっしょになっていては、理性的な計画もいらなくなってしまう。作りものの計画という考えと、そのばかばかしさだけが残ってしまうものだ。ということは、彼の行為に観客はただ固唾を呑んで見守るのである。それは原因と結果とは無関係で、たんに広がっていく空間のなかでのひとつの広がっていく接触と関係があるのである。

ひとたびその手紙が劇場の外に出るや否や、その舞台の一角に縞の着物を着た、がっちりした男からはずれてしまうのである。

ドラマはひとつの扉の小さなすきまから、しだいに大きくなっていくような外に向かって開くときに始まるのである。

俳優の眼は客席を見回し、誰か出してくれそうな人を探し出している。その体は他人の意思次第できまる希望がその心臓の鼓動であるかのように催眠術のようなリズムで前に進んでいく。演技者は、私たちの前ですうーっと止まる。まるで床の上でも天井でもなくて、ただ空中に舞い上がるほこり、ちりのなかにだけ、彼と客とが出会うかのように。

彼の集中した緊張はだんだんと高まり、私たちの緊張とマッチし合っていく。ダイナミックな命令でもなければセンチメンタルな懇願でもない。

ついこの前のシーズン中に、リザード・チェスラックという名前の驚嘆すべき肉体と声の技術を持ったひとりの俳優が、ポーランドのジェルツィー・グロトフスキー実験演劇とともにニューヨークにやってきて絶賛を博した。

彼とまったく同じような驚嘆を覚えた。サイトウの集中力は、チェスラックよりも上回る。むしろ幾分かプラスをもって上回る。(私は何も彼のためだけならばサイトウを称賛しすぎるようなことはしたくない。しかし何にも増して自分で感じ思ったことはそのまま忠実に記録すべきであると思っている。)

なおかつ彼には筋肉と知性のコントロールがある。というのは、感情の直接的な伝達は筋肉と知性に加えられたからである。おもしろいことに、ほかの怒りや軽快なボードヴィル(笑いの場面)は、浮き上がり、彼のシーンとは均衡が保たれない。

東京キッドブラザースとして知られているグループは、反抗的である。(反抗の形はだんだんと困襲になっていくものであるが)ノアの箱舟の動物たちのように心と魂のコミュニティーを目的にしている。ぶっきらぼうにもつながっている。

論理は考えないことだ。私たちの注意力は彼のそれと触れあっている。演技者の内的緊張感は、演じられている間中、外に向かって制御されていた。そしてなお、その内的緊張感に支えられ、続けられるかもしれなかった。その演技者がそうしたいのなら、もっと長くずっと続けることができるかのように思われた。この間、これらのすべてが含まれる。

ちょっと特別な場面になっている彼の場面はあっというまに終わってしまう。俳優はショウイチ・サイトウという名で25歳?である。プログラム通りならばほとんどの仲間と同じように大学を中退しているが、もっとも注目すべき俳優である。

不思議なことにこの手紙の場面は、時として怒り、時として歌、踊り、寸劇などを跳び越えてこの劇団のテーマとするものに存在場所を与えている。

この劇団の若者たちはひとつの演劇グループというより、むしろ“自由な人間たち”である。彼らは演劇のプロではなくオペラ歌手のプロになりたいと願っているわけでもない。スタイル、形、規則性、すべての物からの解放が上演のすべてなのだ。身近な自由がすべてそこにあり、それらの自由のいくつかは日常的に慣れ親しんだものなのである。

数年前、5ドルで買ったアメリカの国旗をいまや、「僕はもうこれを必要としません」と、ていねいに折りたたまれて客に返される。

ガラガラ蛇のような音を出すドラムの音が大きくなったり小さくなったり、バイオリンはわざと耳ざわりに弾く。それらのひとつは“Soak it to me、ベイビー”ときこえる。

現代の政治指導者の名前をあげ、マシンガンを模した懐中電灯で射殺される。その後マシンガンは吹き消され、ひとりの日本人が大いなる夢を抱いてアメリカにやってくる。そして何よりもスティーブ・マックウインやフエイ・ダナウエイに街で出会えることを夢みる。

色あせた作業衣(旧日本軍の軍服)を着てメガネをかけたひとりの男がアメリカ西部を夢みて住みつく。はるかかなたに向かって「シエーン、カムバック」と叫ぶ。「シエーン」が「チエーン」と発音されている。この場面はチャーミングだ。プロの目からみても実にチャーミングだ。何度そう言ってもかまわなければ、チャーミング、チャーミングなのだ。(ウォルター・カー)

 この記事を最初に読んだ時、ショウイチはあまり良い気分はしなかった。何か自分が丸裸にされたような気分だった。



【まばたき通信 第15号】

奇妙な舞台体験

ウォルター・カーが、ニューヨーク・タイムズ8月16 日付で書いた「A Ⅼove Ⅼetter From Tokyo」の記事が出たその日、ショウイチは劇場前の石段に座って夕暮れの街を行き交う人をぼんやりと眺めていた。背後からささやくような声で、「ショウちゃん、すごいじゃないか、ニューヨーク・タイムズに載るなんて。すごいじゃないか、俺ではなくて」

東の声だった。ゾッとしたが、ショウイチは努めてクールに「たいしたことじゃないですヨ」と答えた。

悪意をもって人に接するときは背後からささやくように言えばいいのかと思い、これをいつか芝居で使ってやろうと思った。

腰を上げ劇場に入ると、アメリカ人スタッフがワーッと寄ってきて舞台中央で何度も胴上げをしてくれた。初めての経験だった。キッドのメンバーは遠巻きに腕組をしてみていた。

音楽の下田逸郎だけは味方になってくれたが、ショウイチは孤立した。彼は役者ではなくて音楽家だったからだろう。それとプロデュ―サーのブルームガーデンがショウイチの理解者だった。「私はサイトウがいちばん好きな役者だ」と言っているのを人づてに聞いた。

こうしたことがショウイチの芝居に対する思いを駆り立てたが、ある日のことだった。幕が降りてショウイチが衣装部屋に行こうとした時、共演している女優のひとりが突然、「ショウちゃん、あなたの場面を早く終わらせてよ、手が疲れるじゃない」と言った。唖然とした。この驚愕すべき発言、いや唾棄すべき発言が数回あった。もはや劇団ではなくなっている。

これ以降、ショウイチは演技に集中することだけに努めた。ショウイチの集中力についてはウォルター・カーも認めている。そのショウイチが周囲のことに惑わされず、演技にだけ集中していると、ある夜の舞台で不思議なことを体験することになる。

舞台中央で胡坐(あぐら)をかきセリフを言い終えて立ち上がり、舞台前面に行こうとした瞬間、客席から舞台に向かって水が奔流となってショウイチに向かって流れてきたのである。

客席のあちこちには岩がゴロゴロしていて、その岩を白い波が砕いている。一瞬流されると思ったが、足元は冷たくない。思い切って1歩前に踏み出す。そしてまた、1歩と……。やがて水が引き、客席が目に入った。

人は狂ったと思うだろう。ショウイチはこの体験を何十年も封印してきたが、30年後に初めて下田逸郎だけに話した。

この奇妙な経験があったころのことだった。楽屋にひとりのアメリカ人の少女が大きな花束を持ってきてくれた。彼女ははにかみながら、その花束をくれた。

「どうもありがとう、素敵な花ですね」

彼女ははにかんで、うなずいた。なぜか、アメリカにも文学少女はいるのだと思った。




【まばたき通信 第16号】
キッドを紹介した誌紙

カフェ・ラ・ママより大きなシェリダン・スクウエア・プレイハウスに移ったばかりの『黄金バット』は、東京キッドブラザースによる日本のミュージカルである。東京キッドはエレン・スチュアートのラ・ママ日本支部であり、因習的なミュージカルよりも自由でよりレビューのようである。

歌や踊りや語りのなかにセレモニーがある。それは観客に腕をのばすように数々のミステリーを消散させる。それは舞台と客席との間の柵、東洋と西洋の間の柵を取りのぞくことである。とくに東京の若者とニューヨークの私たちの間にあるすべての障害を取りのぞくことである。

このショーを見ながら感じたことがある。音楽というのは「魅力的である」とか「ビューティフル」ということのほかに、プロモーション用とか荘厳な教会にふさわしい音楽以外にも意味があることを願った。

踊りや合唱隊の動きは実に美しい。そしてチャーミング(魅力ある)に近いファスイネーション(魅力的)ということばをよみがえらせる。

快い衝動的な音楽、加えて私たちのロック・ミュージック、フォーク、ポピュラー、ジャズ音楽の楽しい詩は、ステージ上のブースにある小さなオーケストラによって演奏される。ひとつの曲から次の曲へのムードや動きはたいへんバラエティーに富む。設定は日本であったり、ここアメリカであったりする。それには意味がある。

うそはなく、多くのユーモアがある。アクションは非常に衝撃的で、その場での即興性が現われているようであり、次の場面への転換がスーッとおこなわれ、それは見事である。

ラ・ママ実験劇場でも同じだったが、セリフはときどき日本語だが、英語の方がはるかに多い。英語の発音は非常に愛嬌がある。言っていることやセリフがおかしいので、観客をリラックスさせる。多くの点で、ブロードウエイにのぼる前の『ヘアー』を思い出させる。

赤いキモノを着た若い女優がでてきて、客に背中を向けたまま坐り、じっとしている。ステージ上の俳優はほとんどが裸で、頭上のライトは紙の傘でおおわれている。

ステージには扇子や傘、松明(たいまつ)、そしてなにげなくエアーメールの手紙などの小道具が散らばっている。

俳優が客の通路を通ってゆっくりと集まる。観客に「ハッピー?」と尋ねたり、話しかけたりするために通路を行ったり来たりしなくても、東京キッドブラザース、キッドシスターズはたちまち観客とふれあう。

私は、演劇で観客に話しかけたり、尋ねたりすることは、ふつうは反対だが、彼らは観客の内面に侵入しないので譲歩する。(難点はいくつかの場面がちょっと長すぎる)

俳優は誰もが良いが、とくに頭を剃った若い男のひょうきんなコメディと踊りに興味をひかれた。縞の着物を着たかわいい少女の、おかしな、そしてあつかましさにも興味をもった。

『黄金バット』は大成功である。というのも観客参加で観客の反応が良かったからである。観客におかしさを印象づけるのではなくて、それを追い払うことにある。このおかしさは多くの魅力のひとつである。(エディス・オリバー)



『ゴールデン・バッㇳ』を上演している東京キッドブラザースは、若くて魅力があり、エネルギーに満ち溢れている。シェリダン・スクウエア・プレイハウスで上演されているショーは休憩なしの1時間20分あまり.彼らは“日本のロック祭り”と呼び、タイトルどおりだ。セリフ、音楽、ダンスと、彼らは一連の場面の中で自分たちの生活のこと、とくにアメリカでの生活を題材にしている。

ほとんどの外国人は映画によってアメリカを学び、それが正しいということを証明している。数あるシーンのなかで最も愉快なのは、1940年代のアメリカ映画に出てくる、おかしな司令官だ。ヤスノリ・サイトウはなんとかそれに似せようとする。さも悲しげに自分の子どものころの西部劇のヒーローをさがそうとする。アメリカから日本へ輸出したものがほかにもあるが、それらは明らかに宣伝用のスローガンやロック音楽である。(もちろんロック音楽はアメリカが最初に始めたものではない。)

ショーは魅力的で、心洗われる。伝統(女の子は古いスタイルの着物、男の子はバラエティーに富んだ今風の衣装)と現代を注意深くとり入れている。あまり挑発的にならずに若者が年長者たちの世界との調和に心を配っている。

しかし、ロック・ミュージカル全体に言えることだが、歌詞のいくつかが聞き取りにくい。とくに難しい英語を使って歌うと聞き取りにくさが出る。セリフになっている感情的なものが日本語なので、私たちアメリカ人を芝居に引き入れにくくしている。長すぎるのである。日本語がよくわかる人たちなら、ひとつの独白が長くてもより深い感動を呼ぶかもしれないが、日本語が分からない観客にはそれが伝わらない。

台本と歌詞を書いたユタカ・ヒガシによる舞台化は実に見事だ。イツロウ・シモダによる音楽は言語のもつ普遍性の輝かしい一例でもある。とくにジャズ・バイオリンの使用による1節にジョー・ベヌティやエディ・ラングを思いおこして興味をそそられた。シモダと編曲者のヨウコ・シモダが自分の課題を解決したということを示している。

ケンキチ・サトウは美しい効果的な舞台装置をデザインし、バリー・アーノルドは注目すべきに照明と特殊効果を作り上げた。衣装はキヨコ・チバ。最後に才能あふれた東京キッド・ブラザースを紹介する。ユキコ・コバヤシ、キョウイチ・ナガクラ、レイコ・ナガイ、ショウイチ・サイトウ、サカエ・カトウ、サンショウ・シンスイ、ヤスノリ・サイトウ、ジュン・アラカワ、セツコ・ナカガワ、ノボル・ミネ、ケンキチ・サトウ、ヨシエ・マツノである。(フランク・リー・ウイルドゥ)


「ウォール・ストリート・ジャーナル」(8月18日付)は、東がキッドのミュージカルで訴えたかったメッセージをわかりやすく書いた。すなわち、「合言葉は“法ではなく自由を、罰則ではなく愛を、成功ではなく幸せを、支配ではなく友情を、管理ではなくて解放を”である」と。



日本人は素晴らしい民族である。たとえば『ゴールデン・バット』の13人の若い男女からなる東京キッドブラザースだ。いまグリニッジ・ヴィレッジのシェリダン・スクウエア・プレイハウスで、カーミット・ブルームガーデンとアーサー・カンターのプロデュースで上演している。

数カ月前にオフ・ブロードウエイで上演するためにアメリカに来たが、いろいろと問題がおきて最初のアメリカ人プロデューサーとの契約を解消した。それをラ・ママ実験劇場のエレン・スチュアートが、東京で上演していたショーのアメリカ版を創るように促した。その結果、独創性にあふれ、“ラ・ママ風”のショーを創って観客と批評家に絶賛され、オフ・ブロードウエイのヒット作品となったのである。

いまや東京キッドブラザースは“ラ・ママ東京”である。一度死に、生まれかわった不死鳥のようなコミックのキャラクターから採られた『ゴールデン・バット』は、祭りや若い世代の希望、夢、意思を、これこそが日本のロック・ミュージカルであると表現している。

キャストの平均年齢は23歳、“心と魂の共同体”なのだ。メンバーは演劇のエキスパートではなく、家や街や国を持たない子どもと規定している。合言葉は“法ではなく自由を、罰則ではなく愛を、成功ではなく幸せを、支配ではなく友情を、管理ではなくて解放を”である。

『ヘアー』のようなミュージカル、ウッドストックのようなイベントに親しんだ人たちにとっては今さら驚くものは何もないのだが、きわめて魅力的である。それは『ゴールデン・バッㇳ』が特定の若者の運動がどのようにして国際的なものになっていったのかを提示しているからだある。その向こうにアメリカ文化がどのようにして日本の社会構造に織り込まれたのか、どのようにしてアメリカのさまざまな影響をはっきりとした日本的要素として再生したのか発見できる。

休憩なしの約1時間半、絶えず日本の古いものと新しいものを対比していく。数名の俳優がすでにステージに上がっていて、有名なカブキから取り入れた所作をしている。伝統的な音楽を使い、照明はおとされ、ロックのビートが鳴り響き、ステージで弾ける。まぎれもなく1970年なのだ。

ユタカ・ヒガシによる台本と歌詞は1945年の無条件降伏以後に生まれた若者に与えたアメリカという国と、その影響を主として西部劇、パール・ハーバー、ヒロシマ、ベトナムを通して描く。工業力の差を埋めようとしてニューヨークで目に見えるすべてをカメラに収めようとしている日本人ツーリストは言う。

「枯れてしまった白い花が向こうに咲いているのが見えませんか?」

「私たちが知る限りアメリカは神話の国だ」

ステージ脇の高所で5人のミュージシャンが演奏するイツロウ・シモダの音楽は、伝統音楽と新しい音楽をミックスし、この上なく魅惑的である。どんなアメリカのグループも今風でありたいと願うのと同じようにイツロウ・シモダのメンバーは今風で、自分たち日本人自身を魅力あるものにしている。このことに加えて彼らの国々の暖かい友好、そして結びつきはあらがいたいものがある。

ショーの終わりに俳優たちはロビーに並び観客が帰る際にお辞儀のあいさつをする。アメリカではこういった光景はありえないことで、とても心温まるものである。この上なく素敵なショーの終幕にふさわしいものである。(ジョン・J・オコナ―)

『ヘアー』に影響をうけた若者たちがミュンヘンからモントリオールにまで出現している。西洋ではなく東洋の水瓶座生まれの若者たちが『ゴールデン・バッㇳ』という独自の日本のロック・ミュージカルをマンハッタンのシェリダン・スクウエア・プレイハウスで熱く上演し、激賞されている。

半分は日本語で上演されているが、これは問題ではない。今までロックのショーでふれられる反体制的な文化、愛、平和、文明は何かを抹殺している。だから、街で、ステージで行動を起こそうと呼びかける。

才能あふれたロック・ミュージシャンたちが鉄パイプでうまく作られた上段のロフトで演奏し、空を表わす紗幕には北斎の絵が描かれ、波しぶきを背景に東京キッドブラザースの俳優たちがいまの社会はおもちゃ箱をひっくり返したようだというテーマを表現し演じている。

彼らは歌い、踊り、演じ、独白し、時として自分たちの戦後という過去に対する文化的危機や、これからの望ましい愛や同胞愛を描き、それを通じて自分たちの歩みを検証していく。

振り付けは東洋と西洋がミックスした“指をならすカブキ”ともいえる魅力的なもの。衣装も素晴らしい。「ソォ―ク・イッ・ツウ・ミー」「私は好奇心の強い女よ」といった咄嗟にタイミングよくギャグを飛ばして笑いをとることができないでいる。それはレイプ、盗み、殺人とは違ってワクワクする祭りのようだ。だが、本当におかしい場面が多々ある。ひとりがアメリカ西部を舞台にした「シエーン」「OK牧場の決闘」「ハイ・ヌーン」を次々とあげるが、彼はゲーリー・クーパーではなくてマッカーサーが来たと悲しげに言う。

おちゃめで可愛いセツコ・ナカガワは観客の中に入っていって、ひとりの毛深い客に質問する。答えようとすると彼女はたどたどしい英語で、言うことが理解できないと言う。

ある種の日本とポーランドのジョークがまざり合ったようなかっこうのムチャクチャなカメラ小僧がバシャバシャとシャッターを切りながら観客席に入っていく。

ひとりの俳優は政治的なことを言いながら、ドゴール、ニクソンの名をあげ、懐中電灯で狙いをつけてそれをマシンガンに代えてキャストたちをターン、ターン、ターンとなぎ倒していく。ヌードシーンは、共同浴場がある国から来ているからであろうか、驚くほど上品に見える。

いくつかのシーンでは現実の瞬間が現れる。頭を剃って着物を着たショウイチ・サイトウが暗がりの舞台から、いかに彼がひとりの少女と恋におち、その恋が挫折したかを物語るとき、このどうしょうもない悲哀が観る人の心を激しく打つ。自分の痛ましい過去とその閉じ込められた感情を話すとき、彼はぼろぼろに破れた手紙を帯の間からとり出し、無言のまま、誰かがその手紙をとりにきてポストに入れてくれるよう乞う。観客のひとりが彼に手をさしのべる。このような現実の回収ドラマは、勇ましいロックではないが、東京キッドの土台になっている。(S・K・オバーベック)

▲記事の写真は、ショウイチがバイオリンを弾くコメディ場面


彼らは歌い、踊り、演じ、独白し、時として自分たちの戦後という過去に対する文化的危機や、これからの望ましい愛や同胞愛を描き、それを通じて自分たちの歩みを検証していく。

振り付けは東洋と西洋がミックスした“指をならすカブキ”ともいえる魅力的なもの。衣装も素晴らしい。「ソォ―ク・イッ・ツウ・ミー」「私は好奇心の強い女よ」といった咄嗟にタイミングよくギャグを飛ばして笑いをとることができないでいる。それはレイプ、盗み、殺人とは違ってワクワクする祭りのようだ。だが、本当におかしい場面が多々ある。ひとりがアメリカ西部を舞台にした「シエーン」「OK牧場の決闘」「ハイ・ヌーン」を次々とあげるが、彼はゲーリー・クーパーではなくてマッカーサーが来たと悲しげに言う。

おちゃめで可愛いセツコ・ナカガワは観客の中に入っていって一人の毛深い客に質問する。答えようとすると彼女はたどたどしい英語で、言うことが理解できないと言う。

ある種の日本とポーランドのジョークがまざり合ったようなかっこうのムチャクチャなカメラ小僧がバシャバシャとシャッターを切りながら観客席に入っていく。

ひとりの俳優は政治的なことを言いながら、ドゴール、ニクソンの名をあげ、懐中電灯で狙いをつけてそれをマシンガンに代えてキャストたちをターン、ターン、ターンとなぎ倒していく。ヌードシーンは、共同浴場がある国から来ているからであろうか、驚くほど上品に見える。

いくつかのシーンでは現実の瞬間が現れる。頭を剃って着物を着たショウイチ・サイトーが暗がりの舞台から、いかに彼がひとりの少女と恋におち、その恋が挫折したかを物語るとき、このどうしょうもない悲哀が観る人を激しく打つ。自分の痛ましい過去とその閉じ込められた感情を話すとき、彼はぼろぼろに破れた手紙を帯の間からとり出し、無言のまま、誰かがその手紙をとりにきてポストに入れてくれるよう乞う。観客のひとりが彼に手をさしのべる。このような現実の回収ドラマは、勇ましいロックではないが、東京キッドの土台になっている。(S.K.オバーベック)

【まばたき通信 第17号】

9月に紹介されたキッド

『ゴールデン・バット』は12月まで続き、多くのメディアに取り上げられた。それぞれの視点から東京キッドとショウイチを知ることができる。

シェリダン・スクウエア・プレイハウスで幕を開けた『ゴールデン・バッㇳ』は人間精神の高潔な志に対する感謝状のようなものである。

台本と歌詞はユタカ・ヒガシである。その簡潔さは素晴らしい。というのも観客とキャスト(たどたどしい英語を話す若くて才能にあふれた日本の俳優たち)の間のコミュニケーションは、その俳優たちの誠実さによって一層魅力的なものになっている。

注目されるのは、俳優の役柄ではない。良く練られたプロット、すなわちストーリーはなく、個々の参加者つまり俳優たち自身なのである。

ステージでは魔術的なことが起こる。若くてエネルギーに満ち溢れた彼らの話は、自分たちの民族の神話や政治的現実に対して幻滅する。ユーモアに富み、時に悲しみに胸を痛めながらも自分のなかで正しいことを検証し呼吸する。そして、誤っていることを峻拒する能力を見出してきたのだ。

イツロウ・シモダの音楽は西洋と東洋のロックがミックスしたものに伝統的な日本の音楽を組み合わせた施律性が優れている。

見事に演じられる一人ひとりの演技や躍動感溢れるアンサンブルを通した晴れやかな幕開けから、優美な身の動きの結末に至るまで、俳優への振り付けは並外れたセンス、溢れる表現となっている。観客と俳優たちが互いに手に手をとりたいという誘惑は両者の親しみを象徴している。

自らを東京キッドブラザースと呼び、人生という名の劇場で感動し、笑い、泣き、そして歌いあげているのだと言う。そして、私たちの心の中に花を咲かせ、雪を降らせ、風を呼びこみたいと言う。彼らは自然とともに意のままにした生命力に触れているかのようだ。人間どうしの大いなる理解、哀れみ、優しさの到来の先ぶれとなるのだ。

「インダス川」のコーラスにのせて語られるショウイチ・サイトウの独白は深遠である。お辞儀をするように1通の手紙を差し出し、それを彼に代わって誰かがポストに入れてくれるように頼む。観客のひとりが立ち上がり手紙を受け取ると、自分の席に戻りそのまま釘づけにされてしまう。

ユキコ・コバヤシは「ハッピー」を歌っている間、ほかの俳優による神輿に乗って、心から楽しそうに歌う。彼女は紙で作った大きな一羽の蝶にのってワイヤーで観客の前列の2、3列を跳びこえていくように思えた。 

また、ひと組のカップルが衣装を脱ぎ愛の行為をする(セックスをしているとは違う)シーンはとても情緒に溢れ、ほかの俳優たちはそこから離れたステージで観客とかかわり、にぎやかにコミックな日本語のレッスンをしている。『ゴールデン・バッド』は多くのものを与えてくれ、観客をいい気分にする。

『ゴールデン・バット』は、『ヘアー』以来もっともすぐれた若者ミュージカルというとさしさわりがあるかも知れないが、アメリカにはそれに匹敵する演劇がない。素晴らしくビューティフルなキャストと、気高くふれ合える一夜を与えてくれた。シェリダン・スクウエア・プレイハウスで、この芝居の魅力に欠くことのできない親しみを与えている。(リチャード・フィルプ)

最近にない興奮した芝居を観劇したあと、ショウイチ・サイトウにお祝いを述べるために楽屋に立ち寄った。観客とのコミュニケーションは、若き日のマーロン・ブランドを思い出させた。

サイトウはやさしそうな、がっちりした25歳(?)の男性。一行のなかでは最年長者である。頭を剃り、上半身裸だ。コスチュームであるブルーとグレーの縞模様の着物は腹のところで結ばれているからであった。

東京から持参したプログラムの写真を見ると、彼はロングヘアーである。なぜ剃ったのかと訊くと、ちょっと困ったような顔をしてみせた。

その時、髪を肩まで垂らし、パープルのブラウスを着てダークレッドのパンタロンをはいた、可愛らしい、やさしげな若い女性が助け舟を出した。東京キッドブラザースの通訳で、カズコ・オオシマと自己紹介した。

サイトウはゆっくりと英語で答えた。「僕はアメリカに来るとき、これは初めからやり直さなくてはいけないと思っていました。その意味でも、どうしたら自分は一新できるか考えました。結局ロングヘアーを剃ろうと思いました」と言って頭をこすった。

「東京のY・M・C・Aで学びました」とオオシマさんが説明する。「毎週火・木・土曜に習い、劇団で英語を相当に話せる唯一の人」と付け加えた。

アメリカに来るために英語を習ったサイトウが、若き日のラブ・ストーリーを語る。彼女は今、別な男性と結婚し、サイトウは彼女のもとを去ったことを後悔している。いま、かつての少女への手紙を書くシーンは本当の話、というオオシマさんの言葉を待って、「あったことです」とサイトウ。そのまなざしには威厳があった。

そして、ほかの俳優たちのあとを追うようにロビーの階段を上がり衣装室に消えた。

手染めのブルーのTシャツとジーンズ、スニーカーをはいた、ひとりの若い女性が階段を駆け下りて来た。彼女が先ほどステージで、私たちにハッピーかどうかを尋ねて来た少女だとわかった。(私たちはその時とてもハッピーだと答えたものだ。)ユキコ・コバヤシ、22歳だ。

彼女ら俳優たちは普段どこで食事をしているのか尋ねた。ユキコは私たちが今まで会ったなかでいちばんハッピーな笑顔を見せ、眼にかかるボブヘアーをかきあげながら、にっこりして私たちを見た。

アルバート・ホテルに住み、キッチンが付いているので、そこで食事をとります、とオオシマさんが通訳した。

ユキコが「チャイナタウンで買物をしています」と言うので、チャイナタウンでは何語を使うのか訊くと、「英語です」と言って彼女はふき出した。

ダンガリーと濃いめのTシャツを着た2人の若い男性が部屋に入ってきた。舞台ではみかけなかったのだが、東京キッドのなかではより若く見えた彼らは作家兼演出家のユタカ・ヒガシと、作曲家のイツロウ・シモダだった。2人とも真面目そうで、細身でロングヘアーであった。オオシマさんは25歳と22歳と言った。

2人にニューヨークの暑さはどうか聞いた。ヒガシは、東京の方が暑いと答え、もっと暑い方がいいと言った。彼が言うには、もっと暑い方が俳優たちが舞台で、良い演技ができると。汗をかけばかくほど良い演技をする。エアコンは観客のためにのみある。

彼はラ・ママ実験劇場の方が好きだと言った。彼らは3カ月前に東京から来て初めてラ・ママ実験劇場で演じたのだが、エアコンの音がうるさかったので切ったら、いいステージとなった、と言った。

ニューヨークではどのようにして日常生活を送っているのか尋ねた。オオシマさんは3人が口々に応えるのをきいて「彼らはまだ友だちを作っていない」と言った。ユキコは西部劇が大好きな人物を独白で演じている少年と結婚している。にっこりとほほえんだ。作曲家のシモダにはピアニストの妻がいる。結婚したのは2年前だ。2人の姉妹と義理の兄弟と、いとこらがいる。彼らはここではいっしょに住んでいる。

俳優たちは劇場前の歩道に集合している。メガネをかけダンガリーのズボンをはきオープンシャツを着たサイトウ、ガルボの帽子を目深かにかぶりコットンのミディをはいた少女、ダンガリーのズボンをはき作業用のシャツを着、駐車中の車にもたれかかった典型的なグリニッジ・ヴィレッジ風の少年はとてもやせていた。

彼らはテキサスから来た男性の招きで飲食付きのプラザ・ホテルに行くために待っていた。私はふと、ニューヨークの日本食レストランと東京の日本食を比較するとどうか、ユキコに尋ねてみようと思った。ジェスチャーをまじえながら、さっきよりもパッと顔を輝かせて、これ以上ない笑顔をみせて答えた。「彼女は知らないのです」とオオシマさんは通訳した。彼らはニューヨークにある日本食レストランでは食事しません。高すぎるからです。(サンディ・キャンプベル)


カズコ・オオシマさんに感謝

プロデュ―サーやマスコミ関係者との通訳を一手に引き受けてくれたカズコ・オオシマ女史は、上智大学出身で、ブロードウエイの演劇関係の通訳をしていた。

このころの彼女はほんとうに美しく、優しく温かい人柄だった。人間に「善」というものがあるならば、全身でそれを表現しているような人だった。「今でも当時のことがありありと目に浮かぶ。ほんとうに有り難うと感謝の気持ちでいっぱいだ」とショウイチ。アメリカ人のご主人は『ヒロシマ』という記録映画を撮った監督である。

さて、ここでひとつの小さな真実を告白しておきたい。

ニューヨーク・タイムズの“A Love Letter From Tokyo”ではショウイチの年齢が25(?)となっている。実はキャスト・スタッフ紹介のパンフレットを作成する際、深水三章が「ショウちゃん、いくつ?」と聞いてきたので25歳とサバを読んだのだった。一介の役者の年齢を「25(?)」と見抜いたのはさすがにミュージカル舞台の本場、ニューヨークの演劇記者の慧眼である。




【まばたき通信 第18号】

もうひとつのオフ・ブロードウエイのヒット作品は、日本のロック・ミュージカル『ゴールデン・バット』である。ラ・ママ実験劇場で上演後、シェリダン・スクウエア・プレイハウスに昇格した。

内容は、日本の若者がアメリカへの幻滅と、アメリカの良い点と日本の良い点を合わせて再生体験するという形をとっている。自ら“ラ・ママ東京”と名乗る劇団はユタカ・ヒガシが率い、彼が『ゴールデン・バット』の脚本と歌詞を書いた。

ヒガシは、演劇はより非観念論的かつ無政府主義的であるべきだ、と信じている。たしかに『ゴールデン・バット』はそういったものにとらわれていない。日本の伝統的衣装をまとっているけれども、彼らの演技は明らかにそれとは無関係である。自らアメリカを揶揄している。

観客参加の場面がかなりある。男女2人がつつましくステージに上がり、ヌードシーンを演じる。少年と少女が愛しげに抱き合う性行為はむしろ愛という名の行為である。

イツロウ・シモダの美しい音楽によって高揚し、劇中のやりとりはききとりにくい英語であっても感動的で真摯なショーがそれを補って余りある。

なかでももっとも感銘的な演技は、ショウイチ・サイトウという名前の俳優である。自分に代わって観客に1通の手紙を出してくれるかどうか尋ねる。手紙というのは、サイトウがかつて愛した少女に宛てたものである。サイトウは彼女が結婚したことを、両腕を外に向かって伸ばし、この上ない悲しみを見事に表現する。その手紙には夫と別れてサイトウと結婚してくれるように懇願する。

ひとりの日本の若者が、あるセリフのなかで、「これがアメリカだ」と言う。そして「アメリカは、戦争はするが自国を決して戦場にしない」と。

チャーミングで才能にあふれた劇団のメンバーは、日本とアメリカ両国への批判を通してひとつの理解にたどりつく。

「私たちの真の国は内なる心の中にある。私たちはこの両腕をつないで私たち自身の国境をつくろう。私たちのこの両腕は国境なのだ」

私たちは『ゴールデン・バット』によっては変えられないかもしれないが、この歓びと関心をともに分かち合うことによって、もっとも良い国際交流ができるのである。(ヘンリー・ヒューズ)



【まばたき通信 第19号】

新たな関門を乗り越える苦悩

シェリダン・スクウエア・プレイハウスでの体験を話しておこう。

ニューヨークに来ることなど考えてもいなかった1969年、ステージショップ「ヘアー」での舞台を終えて帰る時、先ほどまで身を置いていた舞台と、渋谷の歩道橋で目に映る現実との乖離が、グリニッチ・ヴィレッジの劇場でも起こった。

幕が降りた後、劇場の扉が開くとドッと生(なま)の世界が飛び込んでくるのだ。それに対して何の抗いも出来ず、ただ現実に蹂躙されるだけだった。ついさっきまでいた舞台にかえってそこで生を終えたいという虚無感に苛まれた。

ほかのキッドの役者たちは充実感と高揚感を胸に帰るというのに、オレは頭を垂れて夜のグリニッジ・ヴィレッジをトボトボと歩いて帰るのか……。街を行く人たちはみな、楽しそうだ。こういう想いが何カ月も続いた。

ある夜、舞台から客席の背後の扉を観た時、扉の隙間から少しずつ煙のように外に出てゆく術(すべ)はないかと思った。そう、ひっそりと、一本の細い糸にすがるように……。そうすると、しだいに少しずつ舞台と現実世界との壁が取り払われていった。そう、少しずつ心と体を馴らしていくのだ。やっと自分なりに解った。ドラマも現実なのだ。また現実も一篇のドラマなのだ。このふたつは背中合わせ、表裏一体の現実なのだ。そう思うと、ずいぶん楽になった。どちらも自分の生(なま)での生き方なのだ。ショウイチにとって長い間の課題がひとつだけやっと糸口が見えてきた。

しかし、これも2年後に地方公演に行った時、ある人がボソッと言ったひとことで、ショウイは奈落の底に落とされた。そこから脱出するのに2年かかった。

役者をやっていれば、いや人間はだれでも生きている限り、新たな関門が次から次へと姿を現すのだろう。人間は死の瞬間、それをどう思うのだろうか。





【まばたき通信 第20号】

乱闘寸前になった講演

ショウイチは東とニューヨークの大学の演劇科に招かれて講演することになった。行きのタクシーのなかで東が、「2人のギャラは30万円だ」と言った。当時の大卒初任給が3万5000円ほどだった。現在に換算すると200万円は下らない。ショウイチたちがもらったわけではなく、全額劇団に入ったのだろう。

講演会場に着くと教授が迎えてくれた。男女の学生が60人ほどおり、東とショウイチは黒板を背にして座り、自己紹介から始めた。

東が「日本には伝統演劇である歌舞伎、能、狂言がある」と切り出した。ショウイチが通訳した。学生の中にはメモを取る者もいた。みな体格がいいので圧倒されそうだったが、和やかなムードでスタートした。

「このなかで何人が『ゴールデン・バット』を観たか聞いてくれ」と東が言った。学生たちに尋ねると全員が手を挙げた。観た回数を尋ねると、ほぼ全員が2回、3回観ていた。6回、7回と訊く。それでも挙手が続いた。10回、まだ続く。とうとう13回になって1人が残った。ショウイチはその女学生に「How many times?」、彼女は「fifteen times (15回)」。すかさずショウイチが「Thank you very much!」と言うと学生たちはドッと笑って拍手喝采した。学生たちとの緊張が解けた瞬間だった。

その瞬間に東の顔が青くなった。これはまずい。つい調子にのって受けすぎた。ショウイチは後悔したが、体格のいい男子学生が手を挙げた。「演技とは何か」と演劇講座らしい質問があり、気まずい空間が真剣な空間に変った。

ところが東は彼に、演壇前に来るように言った。ショウイチは「Come over here」と言い、学生が来ると東はショウイチを指さし「こいつを殴れ!」と言った。

ショウイチは彼に自分に指を向けて「Hit me!」

学生は躊躇した。すると東は突然立ち上がって大声で「殴らんか!」と怒鳴った。

怒鳴られた学生は皆の前で外国人に怒鳴られたのを侮辱されたと思ったのか、ショウイチに殴りかかってきた。ショウイチは辛うじて身をかわし、彼の腕をつかんで壇上でもみ合いになった。教授が止めに入ると東は「それが演技だ!」とうそぶいた。

教室はすっかりシラケてしまい、ほかに質問もなく、シーンとしたままだった。

ショウイチは先日の舞台での不思議な体験談を話そうかと思ったが、やめた。おそらく東の怒りが倍増したことだろう。僕らは気まずい雰囲気のなかをそれこそ逃げるようにして教室を後にした。帰りのタクシーのなかで2人は無言のままだった。


「セキガハラ」について聞かれた金髪美人

それから2、3日後、パーティーに招かれたが、ショウイチはひとりで出掛けた。グラスを片手にした、若い金髪の美人が話しかけてきた。「あなたはセキガハラの戦いについて知っているか」と言うのである。「Of course」と答えると、ぜひ話してほしいと言う。

「What university and what is your major?」と尋ねると、ハーバード大学大学院で戦争史を専攻しているという。

それではと、ショウイチが関心を持っている関ヶ原の戦いについて話した。

関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉亡きあと覇権を争う天下分け目の戦いといわれ、主な戦国大名が豊臣方の石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍とが美濃の関が原で戦った。

時は1600年9月15日(今の10月中旬)。前夜の雨で一面に霧が立ち込め一寸先もわからない朝の8時ごろ、それぞれ8万人の兵が対峙し、興奮する馬の手綱を引き絞って戦端の緒が落とされるのを今やおそしと待っていた。霧が晴れ、1発の銃声で天下分け目の大戦(おおいくさ)が始まった。

三成の一番家老、猛将の島左近の手の者3000に、東軍の福島正則率いる3000が突撃するが、左近によって何度も跳ね返される。布陣を整えていた西軍が優勢だったが、小早川秀秋の背信があり、三成軍の背後にいた小早川軍1万5000の兵が三成軍に襲いかかり、あっという間に形成逆転、午後2時ごろには西軍の敗走が始まった。

三成は伊吹山の山中に逃げるが、その後捉えられ京の三条河原で斬首された。秀吉に「100万の兵を預けてみたい」と言わしめた盲目の大谷吉継も戦死する。

東軍8万に囲まれた薩摩の島津義弘とその兵1100人は中央突破をはかった。それも家康の真ん前で道を開けて通せと怒鳴った。島津兵は捨てがまりの戦法をとって自分の隊を前進させたが、薩摩にたどり着いた時はわずか86名だったという。

以来、家康が幕府を開き、およそ260年間、鎖国を続けた。1853年、あなたの国のペリー提督が浦賀に来航し、翌年日米和親条約を締結し開国した。

関ヶ原の戦い、そして開国までを詳しく説明したので、「あなたは自衛隊の関係者か」と聞かれたが、もちろん「No!」と答えた。





【まばたき通信 第21号】

エド・サリバン・ショーに出演

アメリカのCBSテレビが毎週日曜夜の8時から放送していた人気番組「エド・サリバン・ショー」は、エド・サリバン(1901~74)がMCを務めるバラエティー番組。

とても気さくな温かい人柄が番組の人気の秘密だ。エルビス・プレスリー、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ビートルズも出演した名番組である。日本人では雪村いづみ、ザ・ピーナッツ、ジャニーズ、ジャッキー吉川とブルーコメッツらが出演している。ショウイチたちが10月25日に出演したことで、東京キッドは全米で知られるようになった。

テレビの著名なニュース解説者が「私は何を隠そう、3回もGolden Batを観に行った」と言ってくれたりして東京キッドは一躍、アメリカで有名なグループになった。

また、みんなでニューヨークで有名な深夜のラジオ番組に生出演したこともある。全米のリスナーからの電話で、佐世保に居たことがある海軍大佐のリクエストがあったので、みんなで「月が出た、出たァー、月がァ 出た~ よいよい~」と炭坑節を歌った。



ガールフレンドとのナイスな話

ショウイチにもガールフレンドができた。

ある日、彼女のアパートで目を覚ますと、何と昼近くではないか。前夜のお楽しみが続きすぎたのか。もう少しで日曜昼の公演の幕が上がってしまう。ショウイチは慌ててアパートを飛び出しタクシーに乗り、運転手に「One car, One dollar!」と言うと、「OK!」と言ってグッとアクセルを踏んだ。あっという間に劇場に着いた。

ショウイチは誰もいない中央の客席に座ってシーンとした舞台を眺めた。この刻が好きだった。誰もいない舞台中央に1本の照明が当たり、まるで深呼吸しているかのようだった。

やがてお客さんが入り、幕が上がり、ドラムの音で世界が一変する。不思議な感覚だ。まるで異次元の世界だ。禅僧のような思いでいると、一夜を共にした女性が現れ、リボンをかけた小箱を「It`s for you」と言って差し出した。

ショウイチは誕生日でもないのにと思って箱を開くと、何と中には自分のパンツが入っていた。あわててスッポンポンでズボンを履いてアパートを飛び出したのだった。彼女はニコニコしている。


ピカソの子息が撮影

シェリダン・スクエア・プレイハウスで上演している時のことだった。パブロ・ピカソの子息であるクロード・ピカソがニューヨークで著名な写真家になっていた。彼の奥さんのサラ・ピカソがショウイチの舞台写真を大きな額に入れて贈ってくれた。舞台で胡坐をかいてセリフを言っているモノクロの写真だ。構図といい、とても気に入っている宝物だ。いつかパリのピカソ美術館に行って、お礼を述べたいと思っている。



【まばたき通信 第22号】

16回のスタンディングオベーション

シェリダン・スクエア・プレイハウスの右隣に「ライムライト」という大きなカフェテラスがあった。

舗道にテーブルを出し、ショウイチは劇場に入る前にここでコーヒーを飲みながら、グリニッチ・ヴィレッジの風景を観るのが好きだった。ニューヨークの日常の風景のなかにゆったとした時間が流れていく。連日観客が入り、芝居も軌道にのっていた。ほかのメンバーもそれぞれニューヨークでの生活を楽しんでいる。

お客さんがショウイチらをホームパーティーに招待してくれ、2人1組になって訪問したことが毎晩のようにあった。

月曜日の休演日に、ニューヨーク近郊の富豪たちのクラブで上演することになった。広大な敷地には劇場やホテル、レストランがあり、海岸には白砂が敷き詰められていた。

そのクラブでは、功なり名を遂げた人たちがまるで少年のように心を開き、会場は熱狂的な雰囲気に包まれた。上演を終えると「これで16回目のスタンディングオベーションだ」と誰かが言った。ショウイチはこの時、「実は金持ちの心の中は孤独なのだ」と思った。

半世紀を超えた今でも、この熱狂ぶりが夢に出てくる。そして、演劇というのは人の心に深く入り、そこで一体となってはじめてコミュニケーションがとれるものだと思った。



「竜馬が行く」を貸してくれた僧侶

そうかと思うと、こんなこともあった。

ニューヨークにある禅宗寺院に招待されて行くと、日本とまったく同じお寺が建っていた。なぜニューヨークに禅宗の寺があるのか。ショウイチは訝っていたが、この寺はなんでもゼロックスの創業者が建てたということだった。

玄関の敷居に作務衣を着て頭を丸めたアメリカ人の男女が手をつかえて迎えてくれた。そこのお坊さんが司馬遼太郎の『竜馬が行く』を貸してくれたのでむさぼるように読んだ。一気に司馬ファンになり、東京に帰って司馬作品のほとんどを読んだ。

ある日、劇場にイギリスのロイヤルバレエシアターによるブロードウエイ公演の切符が送られてきたので、ショウイチは休演日に観に行った。劇場にはレッドカーペットが敷かれ、スクリーンでみる著名な人たちが続々と入ってきた。そのたびにメディアのフラッシュがたかれ、少し興奮した気持ちになった。

舞台で見た男の役者は、男性がもつ肉体としての生臭さを消していた。鍛錬を積んだのだろう。



永倉万治の本と深水三章の女性

ショウイチと同室だった演出助手の長倉恭一(筆名永倉万治〉は、パイプをくゆらせながら太い万年筆で原稿用紙に向かっていた。

「わしゃあ、この太い万年筆でないと、どうも書けんのよ」と、老成した作家のような顔で言ったのでショウイチが「太っちょのジェーンがさっき階段の踊り場で泣いていたぞ。ナガクラがナガクラがと言って」と言うと、長倉は「ワシには東京にフィアンセがおるけんのう」とすまし顔で答える。

そんな彼もその後にドイツの女性と懇ろになって朝方、愕然とした顔で部屋を飛び出したと聞いて大笑いした。まったくしおらしいこと言って……。

長倉は毎夜ひとりで、部屋をしっかり守っていてくれていたのだ。感謝、感謝。

彼はのちに東京キッドのことを『黄金バット』(講談社、95年3月刊)という題名で本にした。内容は僕らの汗と涙の青春記で、大笑いすること必定。ぜひおすすめだ。永倉は『アニバーサリーソング』(立風書房、89年)で講談社のエッセイシスト賞を受賞している。

同じく同室だった深水三章はとにかく手広く奮闘していた。まあよくやるよ。「好き者こそ上手なれ」。

その三章がラブレターを書いてくれと言う。ショウイチは「1通3ドル」と言った。ホテルの窓から夜空を眺め、「It‛s a shooting star! It`s me」(流れ星だよ、それはぼくだ!)と言うと、三章は興奮し「それがいい!」と言った。何回か彼女から手紙が来たが、しばらくすると来なくなった。


▼永倉万治の『黄金バット』の初出誌は、「IN★POCKET」(講談社 93年7月号~94年11月号)である

繰り返されるトラブル

シェリダン・スクエア・プレイハウスでは入場料が格安だったこともあり、連日大入りだった。そんなある日に事件は起こった。

東が舞台正面の後ろに掲げてある大きなアメリカ国旗の星に穴をあけると言い出したのである。星はアメリカの50州を意味している。これには温厚なプロデュ―サーも怒り、「だったら、このまますぐ、荷物をまとめて帰れ!」

内容に違いはあるが、ラ・ママ実験劇場でもエレン・スチュアートに「荷物をまとめるように」と言われたことがあった。その時は杞憂に終わったが、その後ヨーロッパの各都市の劇場では、毎回、劇場側ともめた。1974年、ロンドンの著名な劇場ではついに“トラブルメーカー”と呼ばれ、それ以後ヨーロッパへは2度と行くことはなかった。


▼シェリダン・スクエア・プレイハウスのパンフレットの表紙と内容の一部



【まばたき通信 第23号】

「ニューヨーク・ポスト」からインタビューを受けたショウイチは、顔写真付きだった。

東京キッドがミュージカル『ゴールデン・バット』をひっさげてアメリカに上陸した時、彼らはここで見聞きするものにびっくり仰天するだろうと思われた。が、実際のところ、言葉を除いて彼らは、アメリカはとても気さくなホームだとわかった。

「アメリカの若者は僕たちと同じことに抗議し、政治的体制も似通っています」とショウイチ・サイトウ。彼はグループのなかでは最年長の27歳。いちばん熱心に英語を学ぼうとしている。しかし彼が答えることにはいく分かの通訳が必要だ。彼は言う。

「僕たちは日米安全保障条約に反対です。それによって、僕たちの国には125以上の基地があり、そのことによって僕たちが戦争に巻き込まれるかもしれないからです。僕たちにとって究極の幸福とは平和を維持することです。若者が連帯するのにこれ以上のものはありません」

「劇場には大劇場と小さな実験劇場があります。この違いは僕たちにとっては切実なのです」、「僕たちの前衛演劇の大部分の観客は学生だからです。たしかにここオフ・ブロードウエイの方が観客に多様性が見られます」

『ヘアー』のプロデューサーであるベルトランド・キャステリが東京キッドにニューヨークでの上演を申し出た時、彼らは東京でヒットしていた。

サイトウはこのショーの作・演出家であるユタカ・ヒガシがアメリカに渡るのにわざわざ見送りに行った。しかしその時アメリカに行くという計画はキャンセルになった。

「ツーリストとしてではなくて、どこかで演じることができるならここに残るでしょうが、僕たちはたぶん日本に帰るでしょう」と彼は言った。

『ゴールデン・バット』は若い世代の希望や夢を象徴している。ショーでは必ず観客参加がある。俳優たちは観客に、舞台に上がって一緒にダンスをしたり、ときにはお互いキスをしたりするように促すが、やらせは絶対にない」とサイトウは強調する。

「観客がいやだと言えば決して無理強いはしません。でも、だいたい観客はとても友好的です。多くの観客はショーのあと劇場に残り、僕たちに話しかけてきます」

サイトウは結婚していない。彼が知っている多くの若者も経済的な理由で結婚していない。「大学の授業料を貯めるのに4年間会社で働いた。たとえ8年間働いても子どもを産む余裕はないでしょう」(フランシス・ハーリッジ)



インタビューアーはハーバード大教授

ある日、劇場のスタッフから、「ハーバード大学の教授が君に個人インタビューを申し込んでいる」と言って来た。

休みの日に劇場の前で会うことにした。食事をしながら話そうということになり、海鮮料理店に行った。インタビューは雑誌「ザ・ニューヨーカー」に寄稿するということだった。

同誌はルポ、批評、エッセイ、風刺漫画、詩、小説のほか、ニューヨーク市を中心としたレビューやイベント情報を紹介している週刊誌だ。ショウイチはいろいろな質問に答えたが、例の舞台での奇妙な体験については話さなかった。



次の公演がカギ

東京ではどうだったのか。朝日新聞に、「『黄金バット』長期公演/オフ・ブロードウエーに進出」と取り上げられた。『黄金バット』がうけた理由について、ある劇団員は記者のインタビューに次のように答えている。

「ひとつは、このところオフにしろオフ・オフにしろ、ヒットする面白い芝居が少なく、その中で日本からやってきた私たちの芝居が新鮮に見えたということ」

「むろん東洋的雰囲気の情緒がうけたという側面も強いでしょう。しかし若い観客の場合は、私たちへの内面的な共感、つまり私たちにとってもはや自分たちの“国”などはありえず、何を信じて生きていったらいいかわからないという状況への親近感が強かったと思うのです。いずれにしろ、本当に成功するかどうかは、次の公演にかかっています」





【まばたき通信 第24号】

「ニューヨーク・タイムズ」(10月20日付)には以下のような記事が載った。

現在、シェリダン・スクウエア・プレイハウスで上演されている、日本から来たロック・ミュージカルの『黄金バット』が、ニューヨーク公立図書館の演劇フィルム・コレクションによって後世に記録されるべき最初の演劇として選ばれた。

研究者や演劇専門家らのためにライブの演劇を保存するため、木曜日夜の公演を録画撮りする。録画撮影にはアーサー・カンターとカーミット・ブルームガーデンの2人のプロデュ―サーと、多くの演劇関係者が精力的に取り組んで実現した。

この記事が掲載されてから46年後、ショウイチはふと思いたってニューヨークに出かけた。

ショウイチはまだパソコンを使っていなかった。行く前に予約が必要と言われていたので、New York Public Performing Artsの館長あてにエアーメールを送ると、すぐに「待っている」との返事が来た。

当日、手紙のおかげで厳重な3回の検問もスルーし、3階の広い部屋に通された。

見るとパソコンが100台ほど置かれていた。ここに入館できるのはブロードウエイにある劇場と大学の関係者のみということだった。

驚いたことに7人もの館員が出迎えてくれた。きっと『ゴールデン・バット』が最初にアメリカ演劇として永久保存に選ばれたので、どんな奴だろうと見に集まったのだろう。

ショウイチが、その雰囲気を一気に変える。「私はパソコンはまったくの門外漢だ。なぜなら“an old stone-aged man”(旧石器時代の人間)だから」と言うと、皆が手を叩いて大笑いした。

少しは英語が出来るということもあろうが、ショウイチは外国人とのコミュニケーションにジョークで心を和ませる術を身に付けている。

席に案内され、画面が映し出されると、懐かしい下田逸郎の音楽が始まった。ところが、オリジナルメンバーではショウイチしかいなかった。撮影した時はすでに、皆東京に帰っていたのだ。

やっぱりオリジナルメンバーとのステージは違っている。あふれるような熱気がない。「キッドの舞台は若者らしく、あふれる熱気が感動を呼ぶのだ」としみじみ感じた。

「バカヤロー、何で帰ったんだ」と心の中で叫んでいると、当時撮影していたディイレクターのことを思い出した。

数日間、毎晩来て撮影していたディレクターは、撮影が終わるとショウイチの所に来て「サイト―、サイト―、グッド、グッド」と言っていたことが、昨日のことのようによみがえった。



▼下左の写真はニューヨーク公立図書館。『ゴールデンバット』は同館が選んだブロードウエイ演劇の永久保存版に選ばれ、ビデオ撮影されたアメリカ演劇第1号として残る。下右は、ラ・ママ創立記念日にニューヨークの博物館から借りて展示された「ゴールデンバット」のショウイチの衣装(左奥)

クライブ・バーンの「再び東京キッド」

話は再び戻る。10月28日から11月1日までラ・ママE・T・Cで「CONEY ISLAND PLAY」が行われた。

アメリカ人俳優5人、東京キッド俳優5人によるミュージカルで、多くの観客が来場し、4回の追加公演があった。コニーアイランドという島全体が遊び場になっており、黒人やプエルトリコ人たちが多く集まる場所である。

ミュージカルの内容は、日本人の不良グループとアメリカのリトルギャングたちが出会ってフットボールを競う。

そして、日本人の一人が射的屋の親父にベトナム人と間違われ、射殺されるというもの。

この公演については、ニューヨーク・タイムズの劇評家クライブ・バーンズが「再び東京キッドブラザース」という記事を寄せた。



日本のキッドたちは純真で楽しく、可愛い。明るくてうきうきするようなロックによるレビュー。数人のアメリカの若者が参加している。

ショーは短いが、とても楽しい。舞台はコニーアイランドのフットボール場。両サイドにきらきらと輝く回転木馬があり、舞台中央ではキッドたちがちょっとしたカラテの仕草をまじえてフットボールをしている。どこでも起こることがからみ合うが、本質的にはハッピーな出来事。2、3の歌とかんたんな人物描写がある。

テーマはお互いを理解しあうことと、コミュニケーションだ。この困難な世界にあってお互いにひとつになりたいという、ちっぽけだが鋭い洞察力がこのショーにはある。

ひとりの日本の少女がホット・ドックを売る屋台にいるアメリカの少年に近づいていく。彼女はホット・ドックとコークを買おうとしている。たどたどしい英語しか話せないが、彼女は彼をジェイムス・ディーンに似ていると思う。そして彼らは言葉をかわし、彼女にコークとホット・ドックをあげる。

「タダなの?」。彼女はうれしそうに言う。

「タダだよ」。彼はちょっとはにかんだような口調で言う。

このように東と西の出会いがすべてうまくいくとは限らない。

射的用ブースにいる、ひとりのやばそうな男が日本の少年に、「25セントで3回撃てるよ。やってみないか」ともちかける。彼は25セント払い、それで何回も撃てるのだと思いこんでいる。2人は互いに理解できず、殴り合いの喧嘩を始め、少年は殺されてしまう。

この時のショウイチは“チェンジ(おつり)”というだけでセリフは一切なかった。ただ首を絞められて殺されるだけだった。

で、ショウイチは考えた。ならばこのラストの場面を、未だかつて誰も観たことがないようなシーンにしようと考えたのである。ショウイチはこのアメリカの俳優と舞台で本気の死闘を演じようとした。相手も同胞の前で日本人にやられたくないから、ガチ本気を出してきた。

舞台が終わると、声が出なくなっていた。観客からは「Oh No!」と毎回、ブーイングが上がるほどだった。おそらく演出の東は、ショウイチの性格を見越してこの役を振ったのだろう。

日本の少女が日本の少年と向き合い、英語でお互いを悔辱し始める。2人はアメリカの友人たちにはやし立てられ、互いにわいせつな言葉を投げ合うように仕向けられる。

2人は自分たちが何を言っているのか、まったく理解できないでいるが、2人にはそれが汚い言葉だとはわかっている。2人は誤った英語の発音でこれらのわいせつな言葉を、チャーミングに、しかもふき出すような無邪気さで発音する。

最後にはキスをして仲直りをする。わいせつな言語の小さな代償であり、彼らの英語能力ではどうにもならないという無力さを知る客観的な教訓でもある。ほかに何があるのだろうか。

自分を人間的には人望がないと感じている、とても賢い魔法使いがいる。また、小さな女の子が好きな大きな少年、大きな少年が好きな小さな少女がいる。このように人生は矛盾にみち、うまくいかないものだ。しかし何よりもこのショーは若さに溢れ活力に満ち、優しいエンターテインメントである。

独特な雰囲気があり、音楽は人を引きつける。一歩劇場に足を踏みいれればよりハッピーな気分になれる。東京キッドと新しいアメリカの友人たちによって1時間ほどの時を分かち合うことができる。(クライブ・バーンズ)





【まばたき通信 第25号】

由紀子と泰徳が抜け、下田夫妻とショウイチだけに

10月も中旬になると、ショウイチ以外の出演者は全員が東京に帰り、ニューヨーク在住の日本人をオーデションで募集し、入れ替えた。ショウイチは違和感を拭えなかった。やはり小林由紀子と斉藤泰徳が抜けたのは大きかった。オリジナルメンバーで残っているのは下田逸郎・容子夫妻と、役者はショウイチだけとなってしまった。そのころのショウイチは、幕が上がる直前に袖口の幕を口に当てて「我に力を、さもなくば死を!」とつぶやいた。そうすることでスーッと雑念が消え、集中できた。

そのころのことだ。劇場に突然、“寅さん”が楽屋に来られた。ショウイチの楽屋の鏡の横には、大手広告代理店に勤めている従弟(いとこ)に頼んで「男はつらいよ」のポスターを送ってもらい、飾っていた。毎日ポスターに向かってかしわ手を打ってから舞台に上がっていた。

寅さんは、自分のポスターがニューヨークのオフ・ブロードウエイの劇場の楽屋に張ってあるのを見てさぞ驚いたことだろう。渥美さんはそれから4日続けて観に来られた。

2日目の夜、公演後に渥美さんに「これからアメリカ人のパーティーに呼ばれているので、いっしょに行きませんか」とお誘いした。

2人で何部屋もある大きなアパートに行くと、広い部屋は人でごった返していた。ホストのご夫婦が日本の餃子を作って歓待してくれた。渥美さんとショウイチは部屋の隅で胡坐をかいて食べた。

「ショウちゃん、これいけるよ」

渥美さんはおいしそうに餃子を食べる。日本人は渥美さんとショウイチだけだったが、誰も“寅さん”とは気づかなかった。渥美さんも実に楽しそうだった。

その翌日も渥美さんは楽屋に「ヨッ!」と片手を挙げて来られた。その日は数日前にブロードウエイミュージカル『ヘアー』に出演中の全員が『ゴールデン・バット』を観に来て、帰り際に東京キッドを自分たちの舞台に招待したいと言ってきていた。渥美さんにそのことを話すと、「オッ、行こう、行こう」と言うので、休演日に2人でブロードウエイに出掛けた。

座席は、何んとパイプを組んだ舞台上に案内された。客席からショウイチと渥美さんは丸見えだったが、客席からは誰にも気づかれなかったようだった。

ショウイチらは膝っ子僧を抱えて観た。「When the moon~」。

翌日も公演終了後に楽屋に「ヨッ!」と言って来られた。渥美さんに、

「今夜11時半から、ラ・ママ実験劇場でナイトショーとして新作ミュージカル『コニーアイランド・プレイ』という日米5人ずつの俳優で演ります」と言って、2人で行くことにした。ワシントンスクエアの公園を通り、ラ・ママ実験劇場に向かう途中、夜の10時頃だったか、渥美さんは何を考えていたのか、突然、「ショウちゃん、オレ、寅を演る時は思い切りテンションを上げるんだ」と言った。「マックスのエネルギーを使うでしょうネ」とショウイチ。

コニーアイランド・プレイの公演終了後、客席にいた渥美さんとショウイチは若い美人に呼び止められ3人で客席に座って話した。

彼女はFortune Teller(占い師)と名乗り、2人の運勢を観てくれると言う。彼女はショウイチに「あなたはミュージカルの仕事が天命だ」と言った。心の中で、冗談ではない、自分は歌と踊りがまったくダメなのにと思った。渥美さんには「あなたは過去に大病を患ったことがある」と言った。

「ショウちゃん、当たっているよ。俺は肺の片方を取ったんだ」

まさか渥美さんがニューヨークのラ・ママ実験劇場の客席で、それも深夜に美人の占い師に会うとは……。

渥美さんは帰国した。ニューヨークの晩秋が深まり、歩道の枯れ葉が風に舞い上がっていく。わずか4日間と短い時間だったが、ショウイチには貴重な、濃密な時間となった。それから26年、1996年8月、渥美さんが亡くなられた。合掌。




【まばたき通信 第26号】

国連招待のパーティー

クリスマスが近づいたころ、東京キッドは国連主催のパーティーに招かれた。その年にニューヨークでいちばん話題になった劇団を招くというもので、この年は東京キッドが選ばれた。

会場はウォルドーフ・アストリアホテルという超豪華ホテル。舞台の下には大きな丸いテーブルが無数に置かれ、ひとつのテーブルはその国の国連大使と館員8名ほどが囲んでいる。

パーティー会場の壇上でショウイチは「Ladies and Gentlemen~」とあいさつ、出演者全員で2曲歌った。

アメリカの国連大使が歌い終えたショウイチのところに来て、腕をとり、各国の国連大使のテーブルに案内してくれた。「お会いできてとても名誉に思います」とあいさつして回ったが、この役は小林由紀子だったらいいのにと思った。彼女はすでに日本に帰っていた。

15、6カ国のテーブルを回り、日本の国連大使のテーブルに近寄ってアメリカ大使は如才なく、「東京キッドブラザースです」と紹介してくれた。ショウイチは日本語で「今日はお招きに与りありがとうございます」と言った。7人全員が顔を上げず、ただ黙々と料理を平らげていた。アメリカの国連大使が紹介してくれたことに何か淋しい思いがした


舞台で抱き合った女性との別れ

公演も最終回を迎えた。カーテンコールが何回も続き、ひとりの若くて濃い紫色のドレスを着た、これぞアメリカのレディーと思われる人が花束を持って舞台に上がってきた。

コロンビア大学の学生で、夏ごろにたびたび観に来て話したことのある女性だった。とても物静かで繊細な女性だった。古き時代の日本女性のようだった。ショウイチは密かにあこがれを抱いていた。

彼女が駆け寄ってきてショウイチと抱き合う……。これでよかったのだ。これ以上は望まない。美しい思い出のまま永遠に胸の中に閉じ込めた。

結局、ニューヨークでは約180回の公演となった。

最終公演の1カ月ほど前のことだ。東がショウイチに全米公演に参加してくれるかというので「喜んで」と答えたが、この話は結局、中止になった。本当は演技という以前に、舞台とは何かということをもっと体で感じたかった。そのためにも1日でも多く舞台に立っていたかった。

ニューヨークでの全公演が終わった12月末、タクシーで下田逸郎と2人でニューヨークの博物館に行った。公演中にひとりのアメリカ人男性が舞台に上がり、一振りの日本刀を持ち、「これは戦争中に日本兵から手に入れた刀だが、もう必要ないのでお返しします」と言ってきた。これを博物館に持って行ったのだが、館内に入ると、右手のガラス越しにショウイチが着た竹の模様がある舞台衣装が飾ってあるのには驚いた。

そして最終公演から2、3日して下田逸郎がマンハッタンの超豪華なスイートルームを予約してくれた。その夜、下田夫妻とショウイチの3人はエンパイアステートビルに上った。

ニューヨークの夜景は息をのむほど素晴らしかった。翌朝タクシーで空港に向かう途中、朝日がぐんぐん昇ってきた。ショウイチは前途を想い興奮した。ニューヨークよ、アメリカよ。さようなら、See you again! Arigato!

この年、日本では赤軍派学生9人による日航機「よど号」が乗っ取られた。日本で初めてのハイジャックだった。11月には三島由紀夫が盾の会会員4人と自衛隊市谷駐屯地に乱入し、自衛隊員の決起を訴えたが失敗。三島は会員森田必勝とその場で割腹自殺するという事件が起こった。




【まばたき通信 第27号】

1971年に東京に帰ってきた東京キッドは、凱旋公演『帰ってきた黄金バット』(1971年1月20日~24日)を後楽園ボクシングシムで行った。新たにアメリカ人女性のサラ・ピカソと、日系2世でCA(キャビンアテンダント)をしていたスーザンが参加した。

『帰って来た黄金バット』は「70年代における大ロマンとは何か? ぼくたちの星は、涙は、ノアの箱舟は、アシュラは、北海道の草原は、マンハッタンの霧は、三島由紀夫への追悼は、それよりも何よりもぼくたちの青い空は?」(チラシ)であった。

この公演で下田逸郎の音楽は一段と冴え、ただ単に音が大きいのではなく、広い空間を圧倒した。東京キッドの芝居には台本がない。そのなかで稽古する。どんな芝居になるのか見当がつかないことがあるが、ショウイチは下田の音楽で「この芝居はこういうのか。どれほど方向付けをもらったことか」と言う。だから下田が稽古場に新曲を持参するたびにワクワクした。下田は劇場の大小で音を創った。やはり下田は天才だ。

歌と踊りはまったくダメなショウイチだが、その良さには心がおどり、心から浮き立つ。そんな気持ちにさせる下田はショウイチとは異次元の世界にいる人であった。

中央に2段式の舞台をしつらえ、下段の背景にはフスマがズラリとならぶ。左側にロック・バンドが配置された。

例によって深水三章の選手宣誓のようなメッセージから始まって小林由紀子へとつなぐ。由紀子のセリフ回しは人の心の琴線にふれる、上手い。そして斉藤泰徳が登場し、場内を爆笑の渦に巻き込む。ショウイチは「やられた!」と思った。ニューヨークのメディアでも泰徳のシーンはたびたび取り上げられたが、彼はこの時、文字通り大爆発、夜空に大輪の花火が打ち上ったのだ。彼の才能が花開いたと思うと、ショウイチは無性に嬉しくなった。

評論家の白浜研一郎は読売新聞で「ブルージーンズ姿をはじめ、巫女(みこ)、トランクス一枚のボクサー姿、大正時代を思わせる着物を着た女などの出演者は、前方のフロアや客席のほとんどの空間を縦横に飛びかい、ロックのリズムで歌い、踊り、ハンド・マイクからコトバを発射する。そういう熱気に、観客は一斉射撃を浴びる感じだった」と評した。

一方で朝日新聞の石沢秀二は「全体を通じて、若者らしい素直さや優しさを感じさせるところもあり、彼らなりの心情や問題から出ず、個性的な独自性がほとんど感じられない」と評し、「問題提起に幼稚さが目立つ」とメッセージ性を問題にした。

公演には渥美清や著名な人たちが観に来られたが、この公演を機に下田逸郎とプロデュ―サーの長井八美が去り、福林裕之が入団した。彼はその後すぐにヨーロッパ公演に舞台監督として行き、先々で苦労したが一度も音をあげたことはなかった。また怒りもみせなかった。彼は、ニューヨーク・タイムズで『ゴールデン・バット』のオフ・ブロードウエイプロデュ―サーのカーミット・ブルームガーデンを評したように、“静かなる戦士”であった。

このころから、日本では東京キッドの公演を取り上げることが少なくなっていった。



【まばたき通信 第28号】

3月には立教大学タッカーホールで『南総里見八犬伝』を公演し、3月27日~30日には日本青年館で『八犬伝』として公演、そして4月に『新・里見八犬伝(The Story of Eight Dogs)』を携えてヨーロッパ公演(4月26日~8月17日)に出掛けた。

上演場所は、ローマ(テアトロ・デ・アルテ)からアントワープ(ロイヤル・オペラ・シアター)、ブリュッセル(テアトロ・ラ・モネ、テアトロ・サンキャロン)、アムステルダム(シャフィ・シアター)、ミュンヘン、パリ、レンヌ(フランス国際演劇祭、メゾン・デ・ラ・カルチュール)、アルジェ、アムステルダム(シャフィ・シアター、ストリートシアター)、ロッテルダムだった。アルジェはアルジェリア政府招待だった。

------ 日本の古い伝説である「八犬伝」をテーマに、彼らは熱意と信念と、柔軟さで、舞台を占有する。彼らの振りかざす刀は戦う若者の姿を示す。しかし、友愛と愛情をたたえるこの共同社会(劇中のあじさい村)の中には、独裁国家に戦闘をかける1人の革命家がいるだけだ。彼は権力に敗北し、彼のまわりの平和な人たちまで死に引き入れてしまう。ここではじめて詩と希望が生まれ、多くの犠牲者は、新しい社会の中で復活する。すべてこれらのことが、東洋的な音楽をアレンジしたロックの伴奏の中で表現される。見落としてはならない芝居である。(雑誌「パンセ・セラ」評の一部)


ショウイチは八犬士のひとり、犬飼現八という役で、模造の日本刀を持って刀に語りかける役柄だった。ヨーロッパ公演ではさまざまな体験が思い出されるが、思い出すままに記しておこう。

留置場に入れられて

ベルギーでのことだ。アントワープのロイヤル・オペラ・シアターでの初日、トラブルが起こった。東が突如、舞台で松明(たいまつ)を使いたいと言い出した。その時はなんとかなだめて、松明は使わなくなったが、きわめつきはブリュッセルだった。

東の提案で、役者たちが役柄の扮装で幟旗(のぼりはた)を持ってブリュッセルの大通りを歩いている時だった。ピーポー、ピーポーと警察のパトカーが鳴っていたかと思うと、突然、警官に取り囲まれた。東はその場からさっさと消え、役者全員が装甲車のような車にほうり込まれた。

装甲車の中では両手を首の後ろにまわされた状態になり、自動小銃を構えた数人の警官が若い役者に向かって、

「この自動小銃を奪ってみろ」と挑発する。

「挑発にのるな!」とショウイチ。

全員が警察署地下の鉄格子の留置場に入れられた。留置場は平らではなく、30度位の傾斜がある。不安定極まりなかった。役者のなかには泣き出す者もいる。しばらくして日本大使館員がとんできて、やっと全員解放された。出所後に東は、「劇場のスタッフには街なかでデモンストレーションすると言っておいたのだが」と言い訳をした。

このころヨーロッパには東南アジア系テロリストがはびこり、彼らとの関連を疑われたとのことだった。翌日の新聞に警察署長の謝罪文が載った。それから数日して市長に呼ばれ、名誉市民のメダルをもらった。

ローマでは豪華な劇場で公演し、お客さんは皆きらびやかな正装だった。ニューヨークの記事をプロデュ―サーが宣伝したのだ。

ベルが鳴る1分前に東が舞台の袖(そで)に来て「ショウちゃん、イタリア人の通訳を付けた。彼がお客さんにイタリア語で芝居の展開を説明するから、舞台の袖に来て彼に英語で伝えてくれない?」

「何だって」

それからのショウイチはそれこそてんてこ舞い。舞台から袖に、袖から舞台へと動き回り、心底「やめてけれ!」と思った。そのイタリア人も有名な俳優ということだった

トレビの泉騒動

ローマでの公演が終わって一日休みになったので、ショウイチは男5人でトレビの泉に行った。夏の暑い日だったが、いちばん若いBはスーツ姿でめかし込んでいた。

トレビの泉にはヒッピーたちが大勢たむろしていた。ショウイチはBを除いた3人に、「おい、Bを泉に放り込むぜ」と言い、「それっ!」と抛り投げた。彼はずぶぬれ。警官がピーピーと笛を吹いてすっ飛んできた。警官はショウイチをそばのビルの隙間に連れていき、罰金15ドルを払えと言った。そんな大金は持っていない。

「ちょっと待ってくれ」と言って、ショウイチは泉の石段のところで騒然としているヒッピーたちの前に大声で呼びかけた。

「皆さん、ローマは暑いですね。今、友だちがトレビの泉で泳いだというので罰金を払えと言われたが、お金がないので寄付をお願いしたい」

ヒッピーたちの前に差し出した帽子のなかにドル札が山のように集まった。それを見ていた先ほどの警官が再びショウイチをビルの隙間に連れていき、

「その金を全部寄こせ」

「NO!」

15ドルだけ払った。まだ騒然としている広場に戻ったショウイチは4人に、こんなにお金を寄付してくれたんだからお返しをしよう。パフォーマンスだ、もう1度、トレビの泉に飛び込もう。5人は一斉にトレビの泉に飛び込んだ。またしてもピーピー。見物の人たちで騒然となった。

「ホテルで落ち合おう」と叫び、バラバラになって逃げた。ホテルの支配人はずぶ濡れのショウイチたちを見て口をあんぐり。ショウイチはクロールの真似をして部屋に入った。

アルジェ公演

パリ公演後、アルジェリア政府の招待で1週間ほど公演をした。

ヨーロッパの街並みとはガラッと変わっている。ひとりでアルジェの街を歩き回った。政府招待なのでSPが付く。朝ホテルを出ると2、3歩後ろからついてくる。珍しいとみえ、子どもたちがぞろぞろとついてきて、「カラチ、カラチ」と叫ぶ。空手を見せろというのだ。ブルースリーではない。あまり大勢ついてくるので、振り返りざま空手の格好をすると、蜘蛛の子を散らすように逃げた。

カスバに行ったが、岩山をくり抜いた地下に何百人も住んでいるという。なかは迷路のようで、扉はなく、厚いカーテンで覆われていた。人の気配がしなかった。ショウイチらは3人なのに警官が8人ぐらい付いてきた。

ある店で「Do you have any flying carpets?」と聞くと、店主は「売り切れた」と切り返してきた。ジョークが通じる店主だった。

舞台がはねてお腹がすいたので街なかのレストランに行ったが、遅い時刻なのでどこもシャッターが降りていた。ついてきたSPがいきなりシャッターを足でけり、あわてて店主がシャッターを開けた。「この人に何かを食わしてくれ」とSPが言う。

ショウイチは気の毒になった。広い店内にショウイチひとり。SPは入り口のドアの所に立っている。「Hey, Come on! Let’s eat together!」。いっしょに大盛りのスパゲッティーを食べた。2人の距離がグッと縮まった。すると、おもむろに内ポケットからピストルを取り出しショウイチに「持ってみろ」という。重い。ずしりとした。

公演最終日。ロックがガンガンと鳴り、ドーム型の劇場の天井が2つに割れて夜空が見えた。観客はほとんどが若者で長倉(筆名永倉万治)が「Revolution!」と叫び煽った。興奮は沸点に達し殺気だってきた。終演後も彼らの興奮はおさまらず、裏口の鉄柵を壊して雪崩込んできた。

「革命だ!」

東京キッドの連中は誰もいなくなった。ひとりだけ取り残されたショウイチは大勢に取り囲まれ、「アルジェの戦いで君たちの父や兄弟、亡くなった者はいますか?」

全員が手を挙げた。彼らのキラキラした目を見ているうちに、その苛酷さに思わず涙があふれてきた。あとは言葉にならなかった。彼らも一瞬気を呑まれたように沈黙した。あとでアルジェリアで石油が見つかったと知った。なぜかホッとした。





【まばたき通信 第29号】

泊まるところがなかった

アムステルダムは落ち着いた、とても素敵な街だ。英語が通じ快適だった。

ある日、ひとりでぶらっとゴッホ美術館に行った。「自画像」が入り口に何気なく展示されている。盗難にあったらどうするんだ。のちにこの絵にスプレーをかけた者がいたと、日本の新聞で知った。

皆でアムステルダム駅(東京駅はこの駅をモデルにしたと言われている)から、自転車を借りて郊外の風車を見に行った。風車はそばで見ると巨大。まるで魔王が行く手を立ちはだかっているように見える。

近くの芝生の上に寝っころがっていると、礼装をした新婚夫婦が近づいてきた。

「イヨッ‼ 新婚さんcongratulations!」

2人は恥ずかしそうに片手を挙げて通りすぎて行った。素朴で何ともいえない、心温まる風景だった。

アムステルダムでは泊まる所がなく、廃校になった小学校の教室に寝泊まりした。誰かが街なかの段ボールを拾いに行った。ショウイチは2枚見つけ、1枚は下の布団、もう1枚は毛布代わりにして寝たが、春まだ浅いので寒くて眠れなかった。しばらく悲惨な生活が続いたが、気分が落ち込むことはなかった。若いからだったのだろう。

しばらくして劇場関係者の紹介で、2人1組で彼らの部屋に移り住んだ。オーナーは若い男性で日本の大手カメラ会社のアムステルダム支店に勤めていた。ショウイチは大きなアパートの1階の広い部屋を借りた。

窓からは石畳の道と運河が望め、大きな柳の木があった、アパートの入り口のドアはまるで城門のようだったが、軽く開いた。

雨の日、窓辺でコーヒーを飲んでいると、何とも言えない風情に酔った。捨てる神あれば拾う神ありだ。

後日、この若者が日本に来た際、彼はショウイチの駒込の下宿に1泊したことがある。1階がヤキトリ屋で2階の部屋は煙が入る四畳半一間(ひとま)。以前この焼き鳥の匂いでご飯を食べたことが何度かあった。トイレは共同である。彼もびっくりしただろう。

1泊目は部屋で七輪の炭火焼き肉をした後、近くの銭湯に出掛けた。彼は興味津々だった。

「This is a Japanese public bath」

隣の女湯から、「アンタ、外で待ってるからネ」という声が聞こえた。若いオランダ人は「今、何んて言ったんだ?」と聞く。通訳すると「オオッー」

それからショウイチは彼に「立ち上がって女湯をのぞいたら? You can do it!」

「Oh、No!」

翌日の夜は2人で新宿に行った。歌舞伎町のきらびやかな不夜城のネオンサインに彼はびっくりしていた。カニ道楽の大きな看板が見えた。ショウイチはこの時ほど金がないことを悔しいと思ったことはなかった。世話になった人をもてなすことができないのだ。

彼が突然、「日本での夜明けは何時だ?」と聞いてきた。

「日本の夜明けは1868年だ」と言おうとしたが、やめて

「It’s when Hamlet‛s father disappears!(ハムレットの父が消える時だ!)」と言った。(毒殺されたハムレットの父親の亡霊が城の天守に現れ、夜明けとともに消える)

彼は突然、狂ったように笑い出した。笑い声がいつまでも歌舞伎町の夜空に響いた。いつかアムステルダムで旧交を温めたい。


▼アムステルダムのシャフィー・シアターのチラシ

女性とひとつのベッドで

オランダ人の俳優がスペインに1カ月間避暑に行くので、その間の愛猫の世話を条件に男4人で家を借りた。ところが、この猫がただものではなかった。生きたヒヨコしか食べないのだった。飼い主が野生を保つためにそうしたらしい。2部屋あり、3人は広い部屋、もう1部屋をひとりで住んだ。

猫の世話係はK君だったが、ある日、部屋の貸主の愛猫が部屋から逃げてしまい、大騒ぎになった。皆で猫なで声で「ネコちゃん、どこ? 出ておいで。出てこないと食べちゃうよ」と言って探した。2、3日したら戻ってきた。

そんななかにニューヨークで知り合ったカンサス大学の女の子の紹介で、ひとりの金髪のアメリカ人女性が訪ねてきた。ホテルをまだ予約していないというので「良かったら、ここで泊まれば」と言ってその夜、一つのベッドに背を向けて寝た。

朝、目覚めると隣の部屋の男3人の眼が充血している。××をするんじゃなかと、ドアの隙間から覗いて一睡もしなかったとのこと。

「俺がそんな男に見えるか‼?」「見える!」。まだ修業が足りない。

4カ月ほどバスでヨーロッパの各都市を回った。ロッテルダムでは2人の新人俳優が脱走した。ショウイチはすぐに電車でロッテルダムに引き返し、ホテルの部屋で2人のパスポートを探したが、見つからなかった。行方は杳としてわからなかったが、2人は無事日本に帰国した。

 このヨーロッパ巡業のとき、東はキッドといっしょにヨーロッパを旅する「キッド旅行団」の募集を企画した。キッドのメンバーと40数名の旅行団員、そして古沢憲吾監督が率いるドキュメンタリー映画撮影班が加わり、ツアーは総勢80人近い大所帯であった。

この年11月から12月に『新八犬伝』の帰国公演を大阪、京都、静岡、鳥取で行った。




【まばたき通信 30号】

1972年4月、四谷公会堂で『西遊記』(3月31日~4月2日)を上演した。ショウイチは八戒役で、この時小学生だった奈良千尋、中学生の大塚朱実、井上聡子がオーデションを経てヨーロッパ公演に同行した。3人ともアイドル的な美少女だった。

『西遊記』について演劇評論家の森秀男は、東京新聞の演劇評で、東京キッドの将来を暗示しているように思える記事を書いた。少し長くなるが紹介しておこう。

------「これといった筋はない。母のいないさびしさに泣く、少年が馬に誘われて、三蔵法師が天竺(てんじく)へ向かったように旅に出るのが発端だが、途中で出会う沙悟浄や猪八戒も、日常のむなしさからのがれた庶民の変身にほかならない。

その一方で、何かを求めることに疲れ果てたひとりの若者が登場し、夢のなかで現われる三蔵法師の一行に反発しながらもひかれてゆく。

この二重の幻想劇を骨組みにして、さまざまな情況に置かれた男女の告白がつぎつぎに織りこまれる。

そこでは喜劇と悲劇、荒々しさとやさしさという手法が交錯するが、全体的に冗長でテンポがおそいから、しらける部分もある。世相への風刺も案外毒がきかない。

現代の若者たちのあてどのない苦しみと希求は、三蔵法師にふんした少女が最後に語る未来へのユートピアのイメージのなかに統一されてゆく。蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の発句を東洋と西洋のシンボルに置き換えながらフィナーレは、全員が現代調の御詠歌のなかで菜の花の黄色い紙吹雪を浴びながら客席にまき散らし、ふしぎな陶酔感をつくりだしていた。

同時に、若い世代の挫折感がこうも無媒介でユートピアへ結び付けられてしまうことに、安易さを感じさせるのも確かである。(後略)猪八戒の斉藤正一が目立った。


『西遊記』を上演したその月から東京キッドはヨーロッパ公演に出掛ける。旅立つ前のショウイチは「平凡パンチ」(4月10日号)のインタビューに答えた。

------ 「東京キッドが世界的に有名劇団になったころ、ニューヨーク・タイムズは《ショーイチ・サイト―は、グロㇳフスキーのチェスラックにまさるとも劣らぬ名優だ》とホメちぎった。アチラの女のコにモテモテで、彼を追って金髪美人がはるばる日本まで追っかけてきたこともある。」と紹介し、「作品のなかに“月は東に日は西に”という景があって、東と西が出会えない状況が描かれるんです。何回かの海外公演で感じたんですが、アメリカ人なら出会えるのにアメリカという国だと出会えないみたいなものが、われわれのなかにある。

アメリカの女のコと仲良くなっても、“このコ、いま何を考えてるのかな”なんて、わからなくなることもある。気持ちのなかには脱日本への志向はあるんだけど、そういうとき、ああ日本というものを、ぼくらの背中から絶対に切り離せないんだなァってことを痛感しちゃうんですよ」

だからして東京キッド、『西遊記』をひっさげて西の国をさすらいながら、けっきょくは日本へ帰ってくる。


 『西遊記』のヨーロッパ版のタイトルは「THE MOON IS EAST THE SUN IS WEST」で、4月から8月、ロンドン(ロイヤルコート・アップステア―シアター、ハムステッドシアター)をはじめパリ、アムステルダム、ロッテルダム、ハーグ、ブリュッセルと回った。

------ 物語は中国の若い僧侶が悟りを求めて旅に出た寓話に基づき、一つの旅の形式をとる。この旅は、1人の子どもの馬による旅行と。モーターバイクを買って自室にしまっているけれど、東京から一生出ることのできない、ある少年の惨めな状態に分かれている。この状況そのものが、東と西の接点として構想されている。(中略)

特に印象に残るは、日本刀を持った少年が、右翼思想による自殺に走ろうとする自らの人生をたどり、子供の頃京都で桜の花を見た思い出から話し始めて、今は、意味のない時の流れから自分自身を切り離さなければなくなったと語る場面である。(「ロンドンタイムス」評)


このヨーロッパ公演の途中で長倉が退団し日本に帰った。また劇団のパワーが落ち、プロデュ―サーもつかず自費公演となった。ヨーロッパ版『西遊記』は一気に小型になり、メンバーは全員新人だったが、「この芝居で久しぶりにこれぞ演劇という気分が味わえた」とショウイチは懐かしむ。



ヨーロッパから帰国したキッドは9月10日、渋谷公会堂で劇中歌リサイタル「星を歌え」を公演、11月2日には山野ホールで「KID FAMILY CONCERT」を開く。

そして『黄色いリボン』だ。チラシでは「われらが心の内なる西部劇。東京から西へ30km、人里離れた草原に住む大ファミリーがくりひろげる物語。東由多加と井上堯之のコンビがおくるミュージカル。演劇と音楽の地平から遥か彼方に歩き出した東京キッドブラザースのグランドレビュー。

初演は一橋大学で、その後山野ホール(1972年12月23日~26日)青山タワーホール(73年2月7日~9日)、慶応大学、同志社大学、立命館大学で公演した。



【まばたき通信 第31号】


1973年3月21日に『海賊キッド』を後楽園ホールで公演した。「3月の黄昏の波止場で、銀色に輝く海を見つめて涙ぐむ男たち。りんご箱の船に乗って船出する。恋は想い出」(チラシの惹句)

この公演が終わったとき渋谷・南平台の事務所でショウイチは東に、

「しばらくグアムに行かない? グアム大学で公演しようよ」

「いいね」

 若者のコミューンの生活に強い関心をもっていた東は、1972年7月に鳥取県内にさくらんぼユートピアの建設を始めた。ところが“ユートピア”が実現しかけると、自分たちのコミューンが成り立たないことを実感した。そんな東を、もう一度、芝居に戻そうとしたのかわからないが、ショウイチはグアムでの公演を思いついた。

グアム大学にニューヨーク・タイムズの記事を送って打診すると、1週間も経たないうちにOKの返事が来た。グアム大学では特設の野外ステージを設け『CAPTAIN KID』を公演(3月30日~4月15日)した。後楽園ホールで上演した『海賊キッド』のアメリカ版である。

この公演で椿事が起こった。深水龍作が筋骨隆々の波止場の労働者で、ショウイチはシェクスピア学者といった設定だった。2人のアドリブで進行する。互いにライバル視していたので、ショウイチは「このセリフで決めた」と思うと、龍作は思いもよらぬ反応でひっくり返す。一切セリフを口にしないで、態度や仕草で反応するのだ。

ショウイチは自分の決めセリフで退場しようとするが、龍作はそれを許さなかった。この繰り返しが延々と続き、互いに意地の張り合いになった。

これを舞台の袖で見ていた舞台監督の福林裕之が両手でバッテン印を盛んにつくっている。もう止めろという合図だ。後で聞くと20分以上も演っていて、演出の東が舞台監督の福林に2人を何とかしろと言っていたという。

しかし東には感謝している。演技に関しては、あれをするな、これをするなと言われたことは1度もなかった。セリフと演技に関しては6年間自由に演(や)らせてもらえた。感謝している。


“呪縛”から解き放たれた

グアムではもう少しで天罰が下るところだった。龍作をふくめ5人でグアムの人気(ひとけ)のない断崖絶壁の海岸で多量の貝を見つけ、火を熾して皆で旨い、旨いと食べていると、現地の人が通りかかって、

「大丈夫か?」

「何が?」

「ここは死に至らしめる貝がごろごろ転がっている。現地の人は絶対に近づかない場所だ」と言うではないか。思わず皆で顔を見合わせた。幸いというか悪運が強いというか、無事生還できた。

ショウイチらは2人1組でグアム大学関係者の家に居候になった。ショウイチとA君がペアになり、何故かわからないがアメリカ人の若い女性2人が暮らす1軒家に世話になることになった。事件はその夜に起こった。この女性たちに夜這いを仕掛けられたのである。ショウイチは難を逃れたが、A君が犠牲になった。「太陽が黄色い」とだんだん譫(うわ)言(ごと)を言うようになった。彼はカミユの『異邦人』のように「太陽が眩しかったから」とは言わなかった。

A君は生気がなくなった。天国と地獄。この両方を毎夜体験しているのであろう。

「A君、わかるかオレだよ」と言っても、ただうつろに「ウ、ウ、ウ……」というだけだった。相当な重症だ。

それからグアムの高台にある立派な邸宅の30畳はあろうかという部屋で過ごすことになった。約1カ月、昼間は何もすることがなくヒマで困った。世話になっている家の次男の高校生と親しくなり、ある日マックに行き、そこでバイトをしている彼のクラスメートの女子高生を紹介された。今夜、高校でダンスパーティーがあるので来ないかと誘われたが、さすがに断った。30歳を超えた男が高校生のダンスパーティーでもなかろうに。しかし今思えば口惜しいことをした。

グアム滞在も終わりに近づいたころのことだ。出演料の30万円でクルーザーを借り海釣りに出掛けた。船のクルーが大きなマグロを釣り上げ、船上で暴れるマグロをクルーが棍棒で仕留めた。それを見ていた劇団の女の子が「かわいそう!」と泣き出した。

マグロは解体され、船上でパーティーだ。さっきまで泣いていた女の子たちは「おいしい」「おかわり」を連発。女性が信じられなくなった。

このグアムではショウイチを“呪縛”から解放した場所ともなった。呪縛というのは、『八犬伝』の打ち上げの席で、某国立大教授から何気なく「完成しすぎだよ」と言われたことがあった。このひと言がその後のショウイチを苦しめていたのである。まさに「寸鉄人を殺す」だが、グアム公演でこの呪縛からやっと解放されたように感じられた。




【まばたき通信 第32号】

秋川リサ・山口小夜子・内田裕也と共演

『猿のカーニバル』(1973年8月1日~5日)を青山タワーホールで上演。この時はトップモデルの秋川リサ、山口小夜子、内田裕也らと共演した。

------ 飼っている小猿に手を引かれて、自由の国を見つけようとしている若い男。いつも遅れてきて№2にしかなれない少年。女の愛に応えられなかった動物園通いのおじさん。捨てた小さなその娘。ほんとうの姿をだれにも見てもらえないのっぽのモデルのキリンなど。

だれも知らない見捨てられた公園で、傷ついた魂が集まって踊るカーニバル。若い男はキリンに言う。「この世の滅びる日も、ぼくは君に愛をささやくよ」。カーニバルの優しさにひかれてはいけない。2人で青い海の中の島に行って、自由になろう…。(毎日グラフ「幻想の舞台」より)

カーネルおじさんに扮して

『ザ・シティ』の上演は、1974年1月23日~26日、2月17日~19日(ヤクルトホール)、再演は4月17日~26日(アトリエ・フォンテーヌ)である。

朝日新聞の演劇担当である扇田昭彦記者は「映画評論」に「埋め立て地に建設されようとしている、管理社会の典型としての巨大な未来都市=「ザ・シティ」に反抗しようとするモーターサイクル族の話である」と書いた。

モーターサイクル族がつかの間の自由を謳歌していた広大な埋め立て地。そこに巨大な団地を建設する公団は「立入禁止」のバリケードを築く。彼らの反抗はバリケードを突き破る以外にない。

舞台は劇場の客席中央に分厚い板を渡し、2台のモトクロスバイクが客席の後ろから爆音を上げて走ってくる。客席は爆音とガソリンの匂いで充満し、劇場ともめにもめた。

主演は深水龍作。龍作が出ると芝居が大きくなる。龍作が舞台をおおいに盛り上げ、久しぶりにワクワクした。龍作の演技は一見、粗野で豪放磊落にみえるが、ち密に計算されている。龍作とはウマがあったショウイチは、後に双子の兄弟といわれた。

この作品では名倉加代子が振り付けを担当し、その後の『THE CITY』でも振付師を務めた。彼女はショウイチたちがニューヨークに行った1970年の前年に渡米、翌年帰国しているから行き違いになったが、このころの名倉はジャズダンススタジオを主宰し、テレビ番組の振り付けをしていた。彼女の振り付けは華があり、踊りの苦手なショウイチでもノリやすかった。

ダンスといえば、忘れられないのが巻上公一だ。巻上とはペアになってケンタッキーフライドチキンの店主兼ガードマンの2役を演じた。ケンタッキーフライドチキンからはカーネルサンダース像と衣装を借りたうえ、段ボール箱いっぱいに詰め込まれた大量のフライドチキンの提供があった。

とにかく巻上は、マルチな才能を持っており、すぐにその場で歌でも踊りでも芝居でも水準以上に演じ分ける。つねにいろいろなことに関心があり、いつも街中に飛び出して行った。

そんな巻上をショウイチはひそかに“平賀源内”と呼んでいた。源内は江戸時代中期に活躍した蘭学者・医者・戯作者・発明家・地質学者で、まさにスーパーマルチ人間である。

巻上は後に「ヒカシュー」というバンドを組み、モンゴル音楽では大先達の一人で、今もライブで活躍している。



ローレンス・オリビエが使った楽屋

イギリス公演のプロデュ―サーはオスカー・ハマーシュタイン、初老の温厚な紳士だった。劇場はロンドンの名門、ロイヤルコート・シアターだった。

『THE CITY』の海外公演計画は『西遊記』のロンドン公演(1972年)を絶賛したロイヤルコート・シアターからの招聘がきっかけだった。

ところが東は、その前にニューヨークで上演することを希望し、7月に渡米、ラ・ママ実験劇場(74年8月1日~31日)、クリケット・シアター(9月~10月)で公演する。

ニューヨークの観客は相変わらずキッドに東洋的な要素のある舞台を期待したため失敗に終わった。そして多くの劇団員が退団し、活動資金も底をつくが、10月にはイギリスに移動した。

この劇場からは『怒りを込めて振り返れ』のジョン・オズボーンや、アーノルド・ウエスカー、エドワード・ボンド、デイヴィッド・ストーリーなど世界から注目された劇作家や演出家が巣立ち、戦後イギリス演劇の黄金時代を築いてきた。そこでの公演だ。

地下鉄のスローン・スクエア駅で降り、階段を上がるとすぐ右手にあるウエストエンドに匹敵する立派な劇場だった。

お客さんは入った。ドレッシングルームでケンブリッジ大学出身の若い男性マネージャーから、「ショウイチの部屋はサー・ローレンス・オリビエが使っていた部屋だ」と言われた。オリビエ(1907~89)はイギリスのシェクスピア俳優として有名な一代貴族。アカデミー賞も受賞している。

衣装は毎日クリーニングされて鏡台の前に置かれており、係の女性が「Tea or coffee?」と言って部屋にもってきてくれた。さすが名門劇場である。


BBC出演と映画出演の話

『The City』のロンドン公演の舞台では、愛称ベン、21歳の堀勉の若さがはじけた。

その堀勉と深水三章、ショウイチの3人が、ロンドン・ケンジントン通りを歩いていた時だった。ベンが突然、「ロンドンの女性は皆、女優みたいにきれいですね」と言う。すると三章が「見慣れてくればブスと美人の見分けがつくよ」とのたまう。

若い感性を羨ましく思ったショウイチはなんていうことを言うんだ、青年の夢を壊すな、という思いがした。ベンは今もライブとテレビで活躍している。

ある日、ロイヤルコート・シアターに行くと劇場のマネージャーが、BBC放送の生番組から出演依頼が来ているので、休演日に劇場の前に来てくれと言われた。休演日に行くと、ショウイチは迎えの黒い高級車に乗せられBBCのスタジオに行った。スタジオはロンドン郊外の昔の農場のようなところにあった。そこのスタジオで30分番組に出演した。

こんな話もあった。例の若いマネージャーが「ショウイチ、映画のキャスティングのプロデュ―サーが話をしたいと言っている。明日の昼ごろはどうか」と聞いてきた。

翌日迎えの車に乗って事務所に行くと、奥の部屋にキャステイング・プロデュ―サーがいた。映画は有名な女優が主役で、シリアスな映画だという。「2、3日のうちに監督に会ってくれないか」と言われた。

約束の日に劇場前で待っていると、黒塗りの高級車にひとり乗せられ、ロンドン郊外の丘の上の教会に連れていかれた。なかに入ると足の踏み場もないほど電気コードが絡まり合っている。

監督と互いに自己紹介したあと、監督が「我々はこれからイギリスのある島で1週間ほど撮影するが大丈夫か」と訊いたので、ショウイチは言下に「No」と答えた。芝居を休むわけにはいかない。丁重に断って劇場に戻ると、マネージャーが勢い込んで訊いた。

「どうだった」

「断った。公演は休めない」

「Why? Why? 代役を立てればいいじゃないか」

 日本とは慣習が違う。そうドライに割り切ることはできなかった。

後日、マネージャーから「プロデュ―サーが君のことをプロだと言っていた」と言われた。ショウイチは外国のプロデュ―サーにはとても好かれた。


ツトム・ヤマシタとは

やがてすべての公演が終わり、ヒースロー空港で搭乗手続きをしていると、見知らぬ2人の日本人が慌ただしく走ってきて、

「サイトーさん、何で帰国するんですか。うちは東さんに話を通して許可をもらっているんですよ」

一瞬、何のことか訳が分からなかった。聞くと、ロンドン在住のツトム・ヤマシタがロンドンで芝居をするので、ショウイチに白羽の矢を立て、東に話をもっていったのだそうだ。ショウイチは一切聞いていなかった。搭乗手続きの時間が迫っていたので手続きを済ませ、ショウイチは機上の人となった。

長かった。苦しい時も大変な時もあったが、最後に残ったものはこの身ひとつ。いろいろなことが走馬灯のように駆けめぐった。ショウイチは疲れ、いつしか深い眠りについた。

BBC出演と映画出演の話

『The City』のロンドン公演の舞台では、愛称ベン、21歳の堀勉の若さがはじけた。

その堀勉と深水三章、ショウイチの3人が、ロンドン・ケンジントン通りを歩いていた時だった。ベンが突然、「ロンドンの女性は皆、女優みたいにきれいですね」と云う。すると三章が「見慣れてくればブスと美人の見分けがつくよ」とのたまう。

若い感性を羨ましく思ったショウイチはなんていうことを言うんだ、青年の夢を壊すな、という思いがした。ベンは今もライブとテレビで活躍している。

ある日、ロイヤルコート・シアターに行くと劇場のマネージャーが、BBC放送の生番組から出演依頼が来ているので、1度、休演日に劇場の前に来てくれと云われた。休演日に行くと、ショウイチは迎えの黒い高級車に乗せられBBCのスタジオに行った。スタジオはロンドン郊外の昔の農場のようなところにあった。そこのスタジオで30分番組に出演した。

こんな話もあった。例の若いマネージャーが「ショウイチ、映画のキャスティングのプロデュ―サーが話をしたいと言っている。明日の昼ごろはどうか」と聞いてきた。

翌日迎えの車に乗って事務所に行くと、奥の部屋にキャステイング・プロデュ―サーがいた。映画は有名な女優が主役で、シリアスな映画だという。「2、3日のうちに監督に会ってくれないか」と言われた。

約束の日に劇場前で待っていると、黒塗りの高級車にひとり乗せられ、ロンドン郊外の丘の上の教会に連れていかれた。なかに入ると足の踏み場もないほど電気コードが絡まり合っている。

監督と互いに自己紹介したあと、監督が「我々はこれからイギリスのある島で1週間ほど撮影するが大丈夫か」と訊いたので、ショウイチは言下に「No」と答えた。芝居を休むわけにはいかない。丁重に断って劇場に戻ると、マネージャーが勢い込んで訊いた。

「どうだった」

「断った。公演は休めない」

「Why? Why? 代役を立てればいいじゃないか」

 日本とは慣習が違う。そうドライに割り切ることはできなかった。

後日、マネージャーから「プロデュ―サーが君のことをプロだと言っていた」と云われた。ショウイチは外国のプロデュ―サーにはとても好かれた。

ツトム・ヤマシタとは

やがてすべての公演が終わり、ヒースロー空港で搭乗手続きをしていると、見知らぬ2人の日本人が慌ただしく走ってきて、

「サイトウさん、何で帰国するんですか。うちは東さんに話を通して許可をもらっているんですよ」

一瞬、何のことか訳が分からなかった。聞くと、ロンドン在住のツトム・ヤマシタ氏がロンドンで芝居をするので、ショウイチに白羽の矢を立て、東に話をもっていったのだそうだ。ショウイチは一切聞いていなかった。搭乗手続きの時間が迫っていたので手続きを済ませ、ショウイチは機上の人となった。

長かった。苦しい時も大変な時もあったが、最後に残ったものはこの身ひとつ。いろいろなことが走馬灯のように駆けめぐった。ショウイチは疲れ、いつしか深い眠りについた。



【まばたき通信 第33号】

ニューヨーク・タイムズの記事のおかげ

ショウイチは数年前にひとりニューヨークに出掛けたことがある。その時に2度もニューヨーク・タイムズの記事にすくわれた。

予約したニューヨークの有名なホテルにチェックインすることになり、クレジットカードの提示を求められた。ところがそのカードが通用しなかったのである。困ったショウイチは、ニューヨーク・タイムズの記事を鞄から出し、“自己紹介”した。するとフロントマンが奥の部屋に行き、しばらくして戻るとOKサイン。ニューヨーク・タイムズの記事で泊まることができたのである。

もう一度は、ウォルター・カー劇場の前を行ったり来たりしていたときである。というのは、東京で『地球の歩き方 ニューヨーク』(ダイヤモンド・ビッグ社)を読んでいると、ブロードウエイの劇場街に氏の名を冠したウォルター・カー劇場があったからだ。

さらに調べてみると、“A Love Letter From Tokyo”の記事を書いたウォルター・カーは、ブロードウエイに10カ所ほどの劇場を持つ劇団で演出し、ニューヨーク・タイムズ紙上には17年間も劇評を寄稿したとある。そんな名門劇場の前を行ったり来たりすれば、不審におもわれるのも当然。支配人らしい男性が出て来たので、わけを話して“A Love Letter From Tokyo”の記事を見せると中に入って行った。ネットでチェックをしたのだろうか、出て来た時はショウイチの肩を抱くようにして劇場に入れてくれた。そこにたまたまいたニューヨーク・タイムズの記者に紹介してくれた。

劇場は客席と舞台の高さがちょうどよく感じられた。やはりブロードウエイで1度はやってみたかったとしみじみ思った。劇場には誰もいなかったが、舞台に立ったような高揚した気分になり、劇場から舗道に出たときは思わずスキップした。


忘れられない山田容子と実子

東京キッドがニューヨークに行く前に、東と下田、そして制作の山田容子(ペンネーム:梶容子)の3人がひと足早く渡米した。容子は17歳、ニューヨーク公演の翌年の71年からの4回におよぶヨーロッパにおける全公演のプロデュ―スを一手に取り仕切った。

容子にはこんな思い出がある。彼女に頼まれてアムステルダムの銀行に行った時のことだ。入り口でショウイチがガードマンに「君は未成年か?」と呼び止められたが、ショウイチは嬉しさを隠し「Oh,no!」と厳かに言った。この時容子は、何百万円もの大金を窓口で受け取っていたのである。なんという度胸だと思った。

ショウイチが東京キッドを辞めたあとも容子はキッドを支え、さらに人気劇団へと押し上げていった。寝食を忘れて劇団を運営していた姿には頭が下がる。山田容子こそ東京キッドブラザースの功労者である。佳き人は薄命なのか、若くして旅立ってしまった。冥福を祈るばかりだ。

容子の姉の実子はモデルで美人だ。東の三回忌に出版した遺稿集「東由多加が遺した言葉」(而立書房刊)の出版委員代表を務め、東のメッセージを後世に残した。

ふたりは東京キッドブラザースの歩みの中で忘れてはならない姉妹である。

☆―――★―――☆―――★―――☆―――★-――☆―――★―――☆―――★―――☆

【半兵衛のつぶやき】

ひとまずこれで終えることにするそうな。

ショウイチは、先の見えない未来に、ただがむしゃらに芝居に打ち込んだ。

ショウイチご主人様の長い人生の中でもっとも輝いている6年だった。「悔いはない」というのが実感だそうな。ご主人様もそれをちょっぴり誇らし気にしているので、半兵衛としてはご主人様の膝に坐って、にゃんと鳴いてやった。(2024年8月)