『上演記録・第1期』

1968〜1974

交響曲第八番は未完成だった

(のち『五人目のビートルズ』に改題)

上演日 1968年12月24日~69年2月13日

上演場所 新宿「パニック」

原作=高橋敏昭 演出=東由多加 装置=高橋章夫 作曲・音楽監督=下田逸郎 照明=ディエターガーブレヒト 衣装・小道具=佐藤憲吉 演出助手=白菊譲 舞台監督=軽井沢野夫 制作=山下泰夫 演奏=ビリー・ザ・キッドとその兄弟<大多田純(D)中山徹矢(G)中島裕(B)高沢修(E)>

キャスト

西田二郎、斉藤泰徳、山本大弐、松尾佳友、大曾根良信、中川冷子、小林由紀子、中川節子、高橋章夫

ソング(作詞 作曲)

「裸のランナー」

「始めよう」

「今日のお相手」

「お父ちゃん」

「霧が深いよ」(下田逸郎 下田逸郎)

「テレビジョン」

「レモンが二つ」(東由多加 下田逸郎)

「1969年の世界旅行」(東由多加 下田逸郎)

「この新聞は!」

「カメラをナイフ」

「それからどうする」

「この橋を渡った処は」(東由多加 下田逸郎)

「兄弟たち」(東由多加 下田逸郎)

「海を見ていた」(東由多加 下田逸郎)

 ぼくがいかにフラフープで遊んだか わたしがどんなにジェイムス・ディーンを愛したか 昭和20年代生まれの出生証! 青春にとって拳銃とは何かを デレビジョン・エイジが歌って、踊って、叩きつける ああ、地下室のメロディ‥‥ これはSOUL PLAY、NEWS PLAY そしてCOMMUNICATION FOOT BALLだ GOGO SPOTパニックで演じる 投石少年たちの白日夢 未完成世代の交響曲を聞け(チラシより)

東京キッド

上演日 1969年7月31日~9月27日

上演場所 渋谷ステージショップ”HAIR”

製作=寺本幸司、山田実子 作=小島圭二 演出=東由多加 音楽=下田逸郎編曲=山下幸三郎 振付=一の宮はじめ 美術=佐藤憲吉、木村道弘 照明=J・K・ライザー ファッションアドバイザー=渡辺ゆみ スタッフ=星野明美、竹尾輝巳、峰登 演奏=下田逸郎、斉藤伸雄、南正人、田山雅充ほか    

キャスト

斉藤泰徳(アリラン)、松尾佳友(ナイフ)、小林由紀子(ローラー娘)、中川節子(ミシンガール)、深水龍作(スラング)、リンゴ・キッド(クロ)、弁天絵巻(シースルー)、横田空子(聖女)、大野真澄(バナナ)、椎谷建治(東京キッド)、斎藤正一(アメリカンフラッグ)、帆角貞子(クリスタルガラス)、吉田実三(情人)

ソング(作詞 作曲)

「オープニング」( _ 田山雅充)

「割れた地球」(下田逸郎 下田逸郎)

「メッセージソング(息を殺してる)」(小島圭 下田逸郎)

「モーニングサービス」(東由多加 下田逸郎)

「遠く離れて」(小島 圭 下田逸郎)

「おふくろを殺しに故郷へ帰る」(小島圭 下田逸郎)

「愛そうとして愛せない」(小島圭 田山雅充&下田逸郎)

「セブンティーン」(小島圭 下田逸郎)

「AND YOU」(東由多加 下田逸郎)

「LOVE LOVE LOVE」(小島圭 下田逸郎)

「DADADA(ダダダの歌)」(東由多加 下田逸郎)

「BANANA」(大野真澄 大野真澄)

ラスト近く、突然若い俳優が客席の女性をひきずり出し、ナイフを手に猛然と襲いかかるというショッキングな"事件"が起こる。むろん"殺人"は未遂。あまりの突発事に恐怖と怒りで震える女性に、俳優は「ぼくが本当に君を殺せると思った?」と問いかける。そしてこの緊迫した問答がそのまま、このミュージカルの締めくくりになるあたりは、なかなか魅力的な「観客参加」の試みである。(朝日新聞・劇評より)

続・東京キッド

上演日 1969年10月15日

上演場所 日消ホール

構成・演出=東由多加、荒川純 舞台監督=斉藤幹郎、橋上博 美術=木村道弘 小道具=武生輝巳 照明=和田勝利とマンダラ商会 制作=星野明美、半田美穂 音楽=下田逸郎、大野真澄 演奏=エイプリル・フール(柳田ヒロ、菊地英二、小坂忠、松本隆、細野晴臣)

キャスト

斉藤泰徳、小林由紀子、松尾佳友、中川節子、深水龍作、大野真澄、吉田実三、斉藤正一、椎谷建治、永浦実、横田明子、佐藤憲吉、峰登、相良好章、TONG HOI MIN、小林和彦、長井礼子、加藤栄、コーラス隊

ソング(作詞 作曲)

「オープニング」( _ 田山雅充)

「割れた地球」(下田逸郎 下田逸郎)

「メッセージソング」(小島圭 下田逸郎)

「モーニングサービス」(東由多加 下田逸郎)

「ひとりひとり」(東由多加 下田逸郎)

「遠く離れて」(小島圭 下田逸郎)

「おふくろを殺しに故郷へ帰る」(小島圭 下田逸郎)

「愛そうとして愛せない」(小島圭 田山雅充&下田逸郎)

「セブンティーン」(小島圭 下田逸郎)

「AND YOU」(東由多加 下田逸郎)

「LOVE LOVE LOVE(ラブ・ラブ・ラブ)」(小島圭 下田逸郎)

「DADADA(ダダダの歌)」(東由多加 下田逸郎)

「BANANA」(大野真澄 大野真澄)

ほか

 新・夕陽の東京キッド。風にちぎれる望郷編、ヤングパワーの総力を結集、無名戦士の暴力的スキャンダル。今も聞こえる時計台からの叫び声、天使たちの革命歌。(「続・東京キッド」ちらしより) 

あしたのジョー ファンの集い

(力石徹告別式)

上演日 1970年3月24日

上演場所 講談社6階講堂

主催 シンジケート・ジャックと豆の木、キッド・ブラザーズ・カンパニー 構成、演出=東由多加 音楽=下田逸郎、八木正生、田中未知  

出演=高森朝雄、ちばてつや、寺山修司、小池朝雄、尾藤イサオ、太田照夫(田辺ジム)、天井桟敷





黄金バット

上演日 1969年12月15日~1970年4月29日

上演場所 渋谷ステージショップHAIR

構成=森忠明、橋上博 詩=森忠明 演出=東由多加 作曲=下田逸郎 美術=佐藤憲吉 装置=毛羽茂 衣装=熊川ルリ子 制作=星子明美、長井礼子 宣伝=木村千晶 写真=柿崎誠二 演奏=キッドブラザース・カンパニー(下田逸郎、田山雅充ほか) 演出助手=荒川純、半田美穂子 舞台監督=斉藤幹郎、加藤則夫 音響=神山昭 スタッフ=長倉恭一、菊地悦子、浦崎サトシ、宮崎孝 

キャスト

斉藤泰徳、斉藤正一、松尾佳友、小林由紀子、中川節子、横田空子、吉田実三、加藤栄、峰のぼる、吉田美奈子、栗林蜜、田村満寛、東垣和夫、(途中から佐藤憲吉、長井礼子、 長倉恭一らも出演)

ソング(作詞 作曲)

「東京ねはん」(東由多加 下田逸郎)

「おかぐら」(東由多加 下田逸郎)

「北北西に進路をとれ」(東由多加 下田逸郎)

「USA」(東由多加 下田逸郎)

「ロック鶴の町」(東由多加 下田逸郎)

「星を撃て」(東由多加 下田逸郎)

「まわりどうろう」(東由多加 下田逸郎)

「インダス河」(東由多加 下田逸郎)

「ラブ・ラブ・ラブ」(東由多加 下田逸郎)

「ダ・ダ・ダの歌」(東由多加 下田逸郎)

「花づくし」(東由多加 下田逸郎)

「おかげまいり」(東由多加 下田逸郎)

「花・雪・風」(東由多加 下田逸郎)

「御詠歌」(森忠明 下田逸郎)

「HAPPY SONG」(小島圭 下田逸郎)

「とおりゃんせ」(東由多加 下田逸郎) 

GOLDEN BAT

上演日 1970年5月末~12月上旬

上演場所 ニューヨーク・ラ・ママ・シアター、シェリダン・スクエア・プレイハウス

作演出=東由多加 音楽=下田逸郎 演出助手=SUZY TRUMBULL,BECKEY DAVIS セットデザイン=佐藤憲吉 照明=ROXANNE KADISHOV 衣装=CHIBA KIYOKO スタッフ=山田実子、稲葉まりあ、柿崎誠二

制作=下田容子 演奏=荒川純、下田容子、他

キャスト

長倉恭一、小林由紀子、斉藤正一、長井礼子、加藤栄、中川節子、斉藤泰徳、峰のぼる、松尾佳友、佐藤憲吉、深水三章、荒川純、松野好江、スーザン世直(後半)、他

※オリジナル・ソングは、冒頭に「アメリカの夢」(東由多加 下田逸郎)が追加された意外は『黄金バット』と同一。ほかに日本民謡の「花笠音頭」や「大漁節」などが歌われた。

『GOLDEN BAT』は観客を魅了し、あきらかに戦後の日本の若者達によって創られたミュージカルである。彼らはあたかも花の様に、そして全世界が自分たちの庭であるかの様に愛を表現する。(中略)ミュージカルは組織化されたやり方ではなく、愛と平和などのテーマを実に魅力的に歌いあげている。大部分は日本語で表現され、時としては観客にも日本語で彼らに語りかける様に促す―。そして、そのムードは楽しく、リラックスしている。下田逸郎の音楽そのものはロックであるが、それも特殊な日本語のアクセントを帯びている。そして、ショウの作者東由多加の演出は驚くほどシンプルである。(ニューヨークタイムス/クライブ・バーン評より抜粋)

 「ゴールデン・バット」には、筋らしい筋はない。「日本」「太平洋」「アメリカン・ロック」「祭」の四シーンに分かれ、各シーンごとに「アメリカ・アメリカ(アメリカの夢)」「御詠歌」「バババ」「家」「俺は女の子が好きだ」といったテーマがある。すべてが主題の「祭」に集約される。筋や細部の意味づけは、ことさらいるまい。彼ら-東由多加のひきいる東京キッドブラザースの面々が、このロック・ミュージカルを通して主張したいのは、不死鳥のような黄金バットに象徴される若い世代の希望、夢、意志の「祭」なのだ。(中略)ラスト・シーン「祭」-口上役の女性が祭の説明をする。゛おかげ、おかげ″は祝祭の踊り。゛生の肯定″全裸の女優を一条のライトが照らし出す。聞こえてくるサンスクリット語の呪文。(中略)彼らは花、雪、風のうちに救いを求める―「われわれは、われわれの人間性を再構成せねばならない」(SB新春スペシャル・薄井昭夫氏評より抜粋)

CONEY ISLAND PLAY

上演日 1970年10月28日~11月1日

上演場所=ラ・ママ・E・T・C

原作=東由多加&THE CO. 演出=東由多加 音楽=下田逸郎 美術=佐藤憲吉 照明=稲葉まりあ 制作=深水三章 通訳=斎藤正一 演奏=下田逸郎、荒川純、下田容子、他

キャスト

斉藤正一、峰のぼる、深水三章、中川節子、加藤栄、John Greiting、Scanlon、Jane L.Kutler、Sandy Batcliffe、Sara Picasso、Greg Antonacci、Alan Wynroth

※ソングの詳細は不明

黒人やプエルトリコ人たちが集まる、コニイアイランドという、島全体が遊び場になっている場所で、日本人の不良グループと、アメリカのリトルギャングたちが出会って、フットボールを競う。そして、日本人の一人が射的屋の親父に、ベトナム人と間違われて、射殺される。(MUSICAL No.6より)



東京キッドブラザース” 再び

“コニーアイランド・プレイはアメリカ人気俳優と共演” “カフェ・ラ・ママで真夜中のショー”

東京キッド・ブラザース 我々に楽しさを与えてくれた人々、そして今再び我々にそれを与えてくれている。シェリダン・スクウエア・プレイハウスでの“ゴールデン・バッド”はその活躍の場をさらに広めている。彼らはカフェ・ラ・ママで一連の真夜中の公演(もう残すところ今宵と明日の夜の公演しかないのだが。)つまりピカピカの新しいショー“コニーアイランド・プレイ”を我々に観せてくれる。

私はこれらの日本のキッド達は純真で楽しく、可愛いということを知っている。ある種の明るくてうきうきするような“ロック”によるレビュー。そしてそれを創るにあたって数人のアメリカの若者が参加しているのだ。そのショーは短くはあるがとても楽しい。それはコニーアイランドのフットボール場が舞台となっている。舞台の両サイドにはきらきらと輝く回転木馬があり、舞台中央ではキッド達がちょっとしたカラテの仕草をまじえてフットボールをしている。そこではどこでも起こることがからみ合ってしかし、本質的にはハッピーな出来事である。二、三の歌とかんたんな人物描写がある。

そのテーマとなるのはお互いを理解しあうこととコミュニケーションである。この困難な世界にあってお互いに一つになりたいという、ちっぽけではあるが、鋭い洞察力がこのショーにはある。

 一人の日本の少女がホット・ドックを売る屋台のアメリカの少年に近づいていく。彼女はホット・ドックとコークを買おうとしている。彼女はたどたどしい英語しか話せない。しかし彼女は彼はジェイムス・ディーンに似ていると思う。そして彼らは言葉をかわす|そして彼は彼女にコークとホット・ドックをあげる。“タダなの?”と彼女はうれしそうに言う。“タダだよ”と彼はちょっとはにかんだような口調で言う。しかしこのように東と西の出会いが全てうまくいくとは限らない。射的用のブースにいる一人のやばそうな男が “二十五セントで三回射てるよ”と一人の日本の少年にやってみないかともちかける。彼は二十五セント払うが、それで何回も射てるのだと思いこんでいる。その二人は互いに理解できないでいる|彼らは殴り合いの喧嘩を始める。そしてその少年は殺されてしまう。

一人の日本の少女が日本の少年と向き合い、彼らは英語でお互いを悔辱し始める。彼らはアメリカの友人達によって、はやし立てられ、お互いに向けてわいせつな言葉を投げ合うように仕向けられる。

二人は自分達が正確には何を言っているのか全く理解できないでいる。しかし二人にはそれが汚い言葉だとはよくわかっている。二人は誤った英語の発音でこれらのわいせつな言葉を、チャーミングにしかもふき出すような無邪気さで発音する。そして最後にキスをして仲直りをする。それはわいせつな言語についての小さな代償であり又、彼らの英語能力ではどうにもならないという無力さについての客観的な教訓でもあるのだ。

他に何があるのだろうか?自分のことを人間的には人望がないと感じているとても賢い一人の魔法使いがいる。又、小さな女の子が好きな大きな少年、又、大きな少年が好きな小さな少女がいる。(かように人生は矛盾に満ち、うまくいかないものだ)

しかし何よりもまずそのショーは若さに溢れ活力に満ちている。

それは優しいエンターテインメントである。そのショーには独特な雰囲気がある。又その音楽は人を引きつけてやまない。そしてあなたが一歩劇場に足を踏み入れるとよりハッピーな気分になれるのだ。この東京キッドブラザースと彼らの新しいアメリカの友人達によって、人々が一時間ほどの時を共にわかちあうことができるのだ。

※ニューヨーク・タイムズ 10月31日  byクライブ・バーンズ




帰ってきた黄金バット

上演日 1971年1月20日~24日

上演場所 後楽園ボクシングジム

作=東由多加 制作=長井礼子、神山昭 構成・演出=長倉恭一 音楽=下田逸郎 演奏=柳田ヒロとそのグループ 美術=倉本政典、中地智 照明=アイスクリーム 宣伝美術=木村道弘

 

キャスト

小林由紀子、斉藤正一、深水三章、中川節子、峰のぼる、スーザン世直、斉藤泰徳、屋良朝雄、加藤栄、サラ・リー、幸村親子、国谷扶美子、他全国全キッド

ソング(作詞 作曲)

「アメリカの夢」(東由多加 下田逸郎)

「美しい海の青さよ」(東由多加 下田逸郎)

「帰る」(東由多加 下田逸郎)

「三月の風」(東由多加 下田逸郎)

「マウイソング」(東由多加 下田逸郎)

「花・雪・風」(東由多加 下田逸郎)

「東京ローズ」(東由多加 下田逸郎)

「桜の花びら~祭」(東由多加 下田逸郎)

70年代における大ロマンとは何か? ぼくたちの星は、涙は、ノアの箱舟は、アシュラは、北海道の草原は、マンハッタンの霧は、三島由紀夫への追悼は、それよりも何よりもぼくたちの青い空は?(チラシより)

中央に2段式の舞台があって、下段の背景にはフスマがズラリとならぶ。そして左側にロック・バンド。ブルージーン姿をはじめ、巫女(みこ)、トランクス一枚のボクサー姿、大正時代を思わせる着物を着た女などの出演者は、前方のフロアや客席のほとんどの空間を縦横に飛びかい、ロックのリズムで歌い、踊り、ハンド・マイクからコトバを発射する。そういう熱気に、観客は一斉射撃を浴びる感じだった。(読売新聞・白浜研一郎評より抜粋)

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 ぼくたちにとって漂流とは何か。ではなくて、ぼくたちにとっての夢見るべきロマンを捜すための漂流記。こんな時代にだって夢はある。キッド旅行団は世代共同体の幻想のユートピアである。ここでは誰もが夢見なくてはならない。そして、「ものみな夢で始まる」としたら始めよう。もちろんあなた自信のための革命をだ。あなたの想い出をふりかえらないで走り出せ。桜並木の路から、四畳半のアパートから、コーヒーショップから、オフィスから、ためらいから、そして全ての現実という名の絶望から。あなたもまた、三千年の夢を乗せて飛ぶさくらんぼユートピアの家族だ。(キッド旅行団/東由多加編『さくらんぼ漂流記』講談社・1971年発行より)

南総里見八犬伝

上演日 1971年3月27日

上演場所 立教大学タッカーホール

作・演出=東由多加 舞台監督=福林裕之 音楽=松崎由治 演奏=高久昇とエクソダス 制作=下田容子、武真理子 

キャスト

斉藤正一(犬村大角)、深水三章(犬飼現八)、峰のぼる(犬田小文吾)、小林由紀子(犬塚信乃)、中川節子、加藤栄、斎藤泰徳、山崎秀剛、国谷扶美子、楠原映二、岡野光、関根進、風間純、スーザン世直

ソング(作詞 作曲)

「紫陽花邑幻想」(東由多加 松崎由治)

「幸福論」(東由多加 松崎由治)

「ロビンソンクルーソー」(東由多加 松崎由治)

「ワンワン・ロック」(東由多加 松崎由治)

「ももたろう」(東由多加 松崎由治)

「漂流記」(東由多加 松崎由治)

「木槍」(東由多加 松崎由治)

「夢祭」(東由多加 松崎由治)

「森を忘れるな」(東由多加 松崎由治)

「霧にかくれたニッポン」(東由多加 松崎由治)

「涙がちってゆく」(東由多加 松崎由治)

「リュミエール」(東由多加 松崎由治)

ほか

 八犬伝は日本の各地にばらばらに生きている8人の若者が、ある夜、流れ星の後を追って旅に出ることによって始まる。彼らは星占いであり、三下やくざであり、家なき子、フーテンなどである。

 そして彼らは出会い、一緒に旅に出る。そして千葉県の小さな村に入って共同生活を始める。だが彼らは平和な村の生活にもあきあきしてくる。霧のかなたに見える日本。

 そして爆弾をかかえて村を出て行った大角を待ちながら桜の木の下で泣く。

 やがて爆破未遂に終わって、権力に追われながら逃げ帰ってきた大角をみんなはやさしくむかえる。

 みんなは死ぬ。そして昇天して、再び旅に出発する。(公演資料より抜粋) 

THE STORY OF EIGHT DOGS

上演日 1971年4月26日~8月17日

上演場所 ローマ「テアトロ・デ・アルテ」→アントワープ「ロイヤル・オペラ・シアター」→ブリュッセル「テアトロ・ラ・モネ」「テアトロ・サンキャロン(140)」

→アムステルダム「シャフィ・シアター」→ミュンヘン→パリ→レンヌ「メゾン・デ・ラ・カルチュール」→アルジェ→アムステルダム「シャフィ・シアター」「ストリートシアター」→ロッテルダム

作・演出=東由多加 舞台監督=福林裕之 照明=余郷秀明 音楽=松崎由治 演奏=下田容子(K)、浜田卓(P)、植村良巳(G)、山田博文(B)他 制作=下田容子、武真理子 キッド旅行団団長=長倉恭一(途中退団) 

キャスト

斉藤正一(犬村大角)、深水三章(犬飼現八)、峰のぼる(犬田小文吾)、小林由紀子(犬塚信乃)、中川節子、斎藤泰徳、山崎秀剛、国谷扶美子、楠原映二、岡野光、関根進、風間純、池田文雄、スーザン世直

ソング(作詞 作曲)

「プロローグ」(─ 田山雅光)

「ユートピア」(東由多加 ?)

「紫陽花邑幻想」(東由多加 松崎由治)

「えいやっ!」(東由多加 ?)

「ロビンソン・クルーソー」(東由多加 松崎由治)

「夏が来る」(東由多加 ?)

「ももたろう」(東由多加 松崎由治)

「漂流記」(東由多加 松崎由治)

「木槍」(東由多加 松崎由治)

「夢祭」(東由多加 松崎由治)

「森を忘れるな」(東由多加 松崎由治)

「北北西に進路をとれ」(東由多加 下田逸郎)

「ユートピアの哀しみ」(東由多加 ?)

「涙がちってゆく」(東由多加 松崎由治)

「蘇生歌~エピローグ」(─ 下田逸郎)

※「南総里見八犬伝」のヨーロッパ公演版。

歌舞伎よりヒントを得たと思われる古典的な舞台装置を背景にして、日本の古い伝説である「八犬伝」をテーマに、彼らは熱意と信念と、柔軟さで、舞台を占領する。彼らの振りかざす刀は戦う若者の姿を示す。しかし、友愛と愛情をたたえるこの共同社会(劇中のあじさい村)の中には、独裁国家に戦闘をかける1人の革命家がいるだけだ。彼は権力に敗北し、彼のまわりの平和な人たちまで死に引き入れてしまう。ここではじめて詩と希望が生まれ、多くの犠牲者は、新しい社会の中に復活する。すべてこれらのことが、東洋的な音楽をアレンジしたロックの伴奏の中で表現される。見落としてはならない芝居である。(パンセ・セラ誌評より抜粋)


新八犬伝

上演日と上演場所 1971年10月22日静岡駿府会館、12月7日中央公会堂

作・演出=東由多加 舞台監督=福林裕之 照明=余郷秀明 音楽=田山雅充 演奏=ミュージカル・コンミューン花雪風 制作=下田容子、武真理子

キャスト

斉藤正一 、中川節子 、深水三章 、峰のぼる 、山崎秀剛 、国谷扶美子、楠原映二 ほか

ソング(作詞 作曲)

「あの村で」(東由多加 田山雅充)

「アルジェの歌」(東由多加 田山雅充)

「旅をして」(東由多加 田山雅充)

「日本バババ」(東由多加 田山雅充)

「桜の花が降る」(東由多加 田山雅充)

「独り消えて」(東由多加 田山雅充)

「AND SHIZUOKA」(東由多加 田山雅充)

「夢の中に帰って」(東由多加 田山雅充)

※ストーリーの詳細は不明





西遊記

上演日 1972年3月31日~4月2日

上演場所 四谷公会堂

作・演出=東由多加 制作=下田容子 舞台監督=可児直人、高木俊 照明=福林裕之 振付=名倉加世子 美術=榎本了一 音楽=加藤和彦 演奏=山田博文、斉藤伸雄、遠藤和雄ほか 

キャスト

奈良ちひろ(三蔵法師) 、斉藤正一(猪八戒)、中川節子、深水三章、楠原映二、藤沢義公、国谷扶美子(角兵衛獅子)、桐島ローリィ(孫悟空)、大塚明美、堤幸子、吉田祐子、吉田舞、真崎洋一郎、杉本佳男、井上聡子、山崎秀剛

ソング(作詞 作曲)

[オープニング」(― 加藤和彦)

「巡礼歌」 (東由多加 加藤和彦)

「月は東に日は西に」(東由多加 加藤和彦)

「モーターバイク」(東由多加 加藤和彦)

「ジャンピング・ソング」(東由多加 加藤和彦)

「ジャックナイフ」(東由多加 加藤和彦)

「かえりたい大地に」(東由多加 加藤和彦)

「故郷を遠く離れて」(東由多加 加藤和彦)

「マオの歌」 (東由多加 加藤和彦)

「赤軍兵士」(東由多加 加藤和彦)

「ハッピィ」(― 加藤和彦)

「中国の赤い星を撃て」(東由多加 加藤和彦)

「御詠歌」 (― 加藤和彦)

「エンディング・故郷を遠く離れて」(東由多加 加藤和彦)

※ストーリーは『THE MOON IS EAST THE SUN IS WEST』と同一





THE MOON IS EAST THE SUN IS WEST

上演日 1972年4月~8月

上演場所 ロンドン「ロイヤルコート・アップステアーシアター」「ハムステッドシアター」他ヨーロッパ各地

キャスト

奈良ちひろ(三蔵法師) 、斉藤正一(猪八戒)、中川節子、深水三章、楠原映二、藤沢義公、国谷扶美子(角兵衛獅子)、大塚明美、堤幸子、吉田祐子、吉田舞、真崎洋一郎、杉本佳男、井上聡子

※「西遊記」のヨーロッパ公演版。 スタッフ、ソングは日本版と同じ

物語は中国の若い僧侶が悟りを求めて旅をとた寓話に基づき、1つの旅の形式をとる。そしてこの旅は、1人の子供の馬による旅行と、モーターバイクを買って自室にしまっているけれど、東京から一生出ることのできない、ある少年の惨めな状態の描写に分かれている。この状況そのものが、東と西の接点として構想されている。(中略)さらに情熱的な自伝風の部分もいくつかある。特に印象に残るのは、日本刀を持った少年が、右翼思想による自殺に走ろうとする自らの人生をたどり、子供のころ京都で桜の花を見た思い出から話し始めて、今は、意味のない時の流れから自分自身を切り離さねばならなくなったと語る場面である。(ロンドンタイムス評より抜粋)

星を歌え 劇中歌リサイタル

上演日 1972年9月10日

上演場所 渋谷公会堂

構成=東由多加 作曲=下田逸郎、加藤和彦、松崎由治、田山雅充 美術=佐藤憲吉 音楽監督=竹田和夫 照明=福林裕之 衣装=相沢和泉 舞台監督=高木俊、可児直人 プロデュース=下田容子、長井礼子、山田実子、小田容子 演奏=クリエイション

キャスト

<キッド・スーパースター>深水龍作、加藤栄、大野真澄、峰のぼる、佐藤憲吉、桐島ローリィ、関根進、岡野光、藤沢義公、松野好江、<キッド・スーパーレディー>井上聡子、大塚朱美、吉田祐子、吉田舞、岡田三千代、<東京キッドブラザース>斎藤正一、中川節子、深水三章、楠原映二、国谷扶美子、<東京キッドファミリー>山田博文、充木武司、松本冷子、ハンス・ミュラー、奈良千尋、<ゲスト>内田裕也、リリィ、及川公平、他

ソング(作詞 作曲)

「おふくろを殺しに故郷へ帰る」(小島圭 下田逸郎)

「東京キッド」(東由多加 下田逸郎)

「メッセージソング」(小島圭 下田逸郎)

「ひとりひとり」(東由多加 下田逸郎)

「愛そうとして愛せない」(小島圭 田山雅充&下田逸郎)

「独り消えて」(東由多加 田山雅充)

「アメリカの夢」(東由多加 下田逸郎)

「北北西に進路をとれ」(東由多加 下田逸郎)

「はないちもんめ」(東由多加 下田逸郎)

「ハッピィ・ソング」(小島圭 下田逸郎)

「花づくし」(東由多加 下田逸郎)

「花・雪・風」(東由多加 下田逸郎)

「とおりゃんせ」(東由多加 下田逸郎)

「夢の中に帰って」(東由多加 田山雅充)

「桜の花が降る」(東由多加 田山雅充)

「涙が散ってゆく」(東由多加 松崎由治)

「日本バババ」(東由多加 田山雅充)

「紫陽花村幻想」(東由多加 松崎由治)

「あの村で」(東由多加 田山雅充)

「アルジェの歌」(東由多加 田山雅充)

「旅をして」(東由多加 田山雅充)

「故郷を遠く離れて」(東由多加 加藤和彦)

「ジャックナイフ」(東由多加 加藤和彦)

「レモンがふたつ」(東由多加 下田逸郎)

「遠くの世界で」(東由多加 下田逸郎)

「メッセージソング」(小島圭 下田逸郎)

「モーニングサービス」(東由多加 下田逸郎)

「桜の花びら~光・涙」(東由多加 下田逸郎)

※1969年~1972年までのキッド劇中歌コンサート





黄色いリボン

上演日と上演場所 1972年12月23日~26日山野ホール、1973年2月7日~9日青山タワーホール他

作・演出=東由多加 照明=福林裕之 舞台監督=高野良和 制作=下田容子 演奏=松本つねを、寺門好昭、下田容子、遠藤和夫、他

キャスト

斎藤正一、中川節子、深水三章、国谷扶美子、山田博文、井上聡子、元木たけし、岡田三千代、木元園子、深水龍作

ソング(作詞 作曲)

「食事の時間」(東由多加 井上尭之)

「人生が劇場なら」(東由多加 井上尭之)

「映画館の歌」(東由多加 井上尭之)

「ギャングのテーマ」(東由多加 井上尭之)

「サーカスのラストショウ」(東由多加 井上尭之)

「愛と同じぐらい孤独」(東由多加 井上尭之)

「花立峠」(東由多加 井上尭之)

「さらば故郷」(東由多加 井上尭之)

「ダーティー・ハリー」(東由多加 井上尭之)

「フィナーレは笑いで」(東由多加 井上尭之)

「西部劇の彼方(Encore)」(東由多加 下田逸郎)

われらが心の内なる西部劇。東京から西へ30㎞、人里離れた草原に住む大ファミリーがくりひろげる物語。東由多加と井上堯之のコンビがおくるミュージカル。演劇と音楽の地平から遥か彼方に歩きだした東京キッドブラザースのグランドレヴュー。(チラシより)





海賊キッド

上演日 1973年3月21日

上演場所 後楽園ホール

制作=下田容子、小田容子 作・演出=東由多加 舞台監督=福林裕之 音楽=石間秀樹 演奏=下田容子、他

キャスト

斉藤正一 、深水龍作 、中川節子 、深水三章、国谷扶美子、山田博文 、井上聡子、奈良千尋

ソング(作詞 作曲)

「三月はたそがれの波止場」(東由多加 石間秀樹)

「Come And Go Mad」(東由多加 石間秀樹)

「ゼンマイ仕掛けの赤いサンタ」(東由多加 石間秀樹)

「善き人サム」(東由多加 石間秀樹)

「海賊のバラード」(東由多加 石間秀樹)

「ウはウイスキーのウ」(東由多加 石間秀樹)

「リンゴ箱の箱船」(東由多加 石間秀樹)

「The Earth In My Hands」(東由多加 石間秀樹)

 3月の黄昏の波止場で、銀色に輝く海を見つめて涙ぐむ男たち。りんご箱の船に乗って船出する。恋は思い出。(「海賊キッド」ちらしより)




CAPTAIN KID

上演日 1973年3月30日~4月15日

上演場所 グアム大学特設野外ステージ

※「海賊キッド」のグアム公演版。メインスタッフ、ソングは「海賊キッド」と同一。 





猿のカーニバル

上演日 1973年8月1日~5日

上演場所 青山タワーホール

制作=山田容子、小田容子、奈良泰秀 作・演出=東由多加 舞台監督=福林裕之 装置制作=前田順 音楽=かまやつひろし 振付=一の宮はじめ 美術=阿部信行    

キャスト

秋川リサ、山口小夜子、内田裕也、大口広司、深水龍作、斉藤正一、国谷扶美子、井上聡子、岡田三千代、猪狩栄子、伊藤匠子、椎谷建治、小宮守、竹内タクオ、山田博文ほか

ソング(作詞 作曲)

「幕を開けてくれ」(東由多加 かまやつひろし)

「まあるい月とカーニバル」(東由多加 かまやつひろし)

「恋の手ほどき」(東由多加 かまやつひろし)

「恋はマッハで」(東由多加 かまやつひろし)

「猿に手を引かれて」(東由多加 かまやつひろし)

「暗い日曜日」(東由多加 かまやつひろし)

「百円玉に賭けろ」(東由多加 かまやつひろし)

「キリンと夕陽」(東由多加 かまやつひろし)

「花と雪と風のカーニバル」(東由多加 かまやつひろし)

「恋は見かけによるものよ」(東由多加 かまやつひろし)

「The Helpin' Hand Of God!」(東由多加 かまやつひろし)

「メロドラマ」(東由多加 かまやつひろし)

「人生はファンタスティック」(東由多加 かまやつひろし)

「三日月熊の背中に乗って」(東由多加 かまやつひろし)

「祈らなければ 愛さなければ 抱きあわなければ」(東由多加 かまやつひろし)

 飼っている小猿に手を引かれて、自由の国を見つけようとしている若い男。いつも遅れてきて№2にしかなれない少年。女の愛に応えられなかった動物園通いのおじさん。捨てた小さなその娘。ほんとうの姿をだれにも見てもらえないのっぽのモデルのキリンなど。だれも知らない見捨てられた公園で、傷ついた魂が集まって踊るカーニバル。若い男はキリンに言う。「この世の滅びる日も、ぼくは君に愛をささやくよ。」カーニバルの優しさにひかれてはいけない。2人で青い海の中の島に行って、自由になろう…。(毎日グラフ「幻想の舞台」より抜粋)





ザ・シティ

上演日1974年1月23日~26日、2月17~19日

上演場所=ヤクルトホール

作・作・演出=東由多加 作曲=下田逸郎 振付=名倉加世子 装置=大野泰 装置制作=前田順 衣装制作=村上敬子 照明=花之木哲 音響=パール楽器 スタイリスト=加藤真知子 小道具=三上由美子 舞台監督=福林裕之 舞台監督助手=高野君子 作・演出助手=清水芙由子、土井美和子 制作=山田容子、小田容子、奈良泰秀 制作進行=山口容子 デザイン=渡邊裕二

キャスト

杏里、カルメン・マキ、ポール脇、斉藤正一、深水龍作、深水三章、国谷扶美子、井上聡子、桑原俊一、藤沢裕子、東海林一枝、岡崎秀彦、巻上公一、桜井仁、伊藤文美、長沢洋子、鎌形杏子、島貫恵、中尾幸世、堀勉

ソング(作詞 作曲)

「オーバーチュア」(東由多加 下田逸郎)

「イエローバード」(東由多加 下田逸郎)

「スマートなガードマン」(東由多加 下田逸郎)

「夜汽車に乗って」(東由多加 下田逸郎)

「黄色いテント」(東由多加 下田逸郎)

「俺達の街はさみしく黄昏れる」(東由多加 下田逸郎)

「お手紙ください」(東由多加 下田逸郎)

「ゴンドラのベッド」(東由多加 下田逸郎)

「聖なる小屋」(東由多加 下田逸郎)

「トマトゲーム」(東由多加 下田逸郎)

「シティ」(東由多加 下田逸郎)

「雪が降れば」(東由多加 下田逸郎)

「ファイヤー・アップル」(東由多加 下田逸郎)

「自由を我らに」(東由多加 下田逸郎)

「雪が降れば(アンコール)」(東由多加 下田逸郎)

埋め立て地に建設されようとしている、管理社会の典型としての巨大な未来都市=「ザ・シティ」に反抗しようとするモーターサイクル族の話である。彼らがつかの間の自由を謳歌していた広大な埋め立て地には、公団側によって厳重な「立入禁止」のバリケードが築かれる。真冬を迎えた若者文化。明らかに彼らに勝ち目はない。「お前たちのバイクは、自由の上を走っているんじゃない。社会の上を走っているんだ」という事実に、彼らはいやでも直面せざるを得ない。追い詰められた彼らに残されている精一杯の「反抗」は、「立入禁止」のバリケードに向かって、全速力でオートバイを走らせ、まるで叩きつぶされるトマトのように激突して果てる無惨な死の「トマトゲーム」でしかないのだ。(映画評論・扇田昭彦より抜粋)

シティ再演

上演日 1974年4月17~26日

上演場所 アトリエ・フォンテーヌ

キャスト

ポール脇、斉藤正一、深水龍作、深水三章、国谷扶美子、井上聡子、岡崎秀彦、巻上公一、長沢洋子、島貫恵、堀勉

※スタッフ、ソング、ストーリーは初演版と同一





THE CITY

上演日(上演場所) 1974年8月1日~31日(ニューヨーク「ラ・ママ・シアター」)

            9月~10月(ニューヨーク「クリケット・シアター」)

           11月3日~12月(ロンドン「ロイヤルコート・シアター」)

作・演出=東由多加 作曲=下田逸郎 編曲=田山雅充 振付=一宮はじめ、名倉加世子 照明=余郷秀明 装置製作=前田順、元木たけし、井上誠 制作=山田容子 舞台監督=福林裕之 制作進行=小田容子、山口容子 写真=滝本淳助 

キャスト

斉藤正一、深水龍作、ポール脇、深水三章、国谷扶美子、井上聡子、中川節子、スーザン世直、岡崎秀彦、堀勉、島貫恵、巻上公一

(ロンドン公演ではスタッフ、キャスト共に若干の変更あり。深水実子、深水靖子がロンドン公演に出演)

海外公演時に追加されたナンバー

「恋は見かけによるものよ」(東由多加 かまやつひろし)

「恋はマッハで」(東由多加 かまやつひろし)

「ヘルピング・ハンド・オブ・ゴッド」(東由多加 かまやつひろし)

「メッセージ・ソング」(東由多加 下田逸郎)※ロンドン公演のみ

「故郷を遠く離れて」(東由多加 加藤和彦)※ロンドン公演のみ






第1期 

キッド兄弟商会から東京キッドブラザースへ


「1968年の秋、ぼくは新宿の町を1匹のノラ犬のようにさまよっていた。20歳で早稲田大学を中退し、寺山修司や横尾忠則らと『天井桟敷』を結成し、2年間いて退団した。何かをしなければと思いながら、『このままだと故郷に帰ってバーテンにでもなるしかないか』と寒々とした気持ちで新宿をぶらついていた。名もなく貧しい男にいったい何ができるというのだろう?そしてある日小さなディスコに入ると、15歳ほどの少年のバンドが演奏しているのにでくわし、感動して立ちすくんでしまった。「ブルース・クリエーション」という、現在「クリエーション」という名の日本の代表的なロックバンドの前身なのだが、その少年たちがバットマンの演奏にのせて、「30歳過ぎは信じるな」と叩きつけるように歌っているのを聴いて、ぼくは自分が何故『天井桟敷』をやめたのかがはっきりと理解できたのだった。そしてこれから何をしなければならないかも。(中略)その翌日から、メンバーを結成するために、大学時代の仲間や高校の後輩などに声をかけ、わずか8名が集まって『東京キッドブラザース』(当初は『キッド兄弟商会』)を創立したのだった。」(東由多加著「ぼくたちが愛のために戦ったということを④」而立書房・1982年発行より抜粋)


1968年12月24日から翌年2月にかけて、新宿花園神社脇のディスコ「パニック」にて「キッド兄弟商会」の第1回作品『交響曲第八番は未完成だった』が上演された。この年はニューヨーク発のロック・ミュージカル『HAIR』が世界各地で上演され話題となっていたが、東由多加は、前出の本文中で


「僕がミュージカルと決定的に出会ったのは(中略)レコードで、ミュージカル『ヘアー』のオープニングの曲である「アクエリアス」のイントロを4小節聴いた時だった。」

と、その影響について記している。


1969年、東由多加は渋谷に『HAIR』という名のブティックを発見する。店の名前が気に入った東由多加は、下田逸郎、山田容子、山田実子らとの共同出資で店の権利を買い取り、ステージショップ『HAIR』をオープン、7月31日から『東京キッド』を上演。10月にはこの作品の劇中歌を集めたレコードを自主制作盤として発売、その記念イベントを兼ねて『続・東京キッド』を日消ホールで上演。12月8日から、渋谷東横劇場にて松竹など大手提供による『HAIR』の日本オリジナル・キャスト版がスタート。深水龍作、大野真澄の2名が『HAIR』に引き抜かれてキッドを退団。


12月15日から翌1970年4月までキッドは『黄金バット』を上演。2月中旬には『HAIR』のプロデューサーB・キャステリが観劇に訪れた。キャステリは『黄金バット』のニューヨーク上演の話を東由多加に持ちかけ、準備のために東由多加、下田逸郎らが渡米。結局交渉は決裂し、劇団は自費で渡米することになった。この時に劇団名を『東京キッドブラサース』と改名。5月末からオフ・オフ・ブロードウェイの「ラ・ママ・シアター」にて『GOLDEN BAT』を上演、多くの劇評家らに絶賛され、年末までのロングラン・ヒットとなった。


 1971年1月、キッドは凱旋帰国公演『帰ってきた黄金バット』を後楽園ホールで上演。3月末には新作『南総里見八犬伝』を上演。4月20日、キッドは『THE STORY OF EIGHT DOGS』上演のためヨーロッパに向けて出発するが、それまでのわずかの間に『黄金バット』と『南総里見八犬伝』の劇中歌LPと『帰ってきた黄金バット』の2枚組実況録音盤を制作し、下田逸郎のソロLP『遺言歌』に参加し、寺山修司監督の映画『書を捨てよ町へ出よう』への出演とサントラ盤の音楽録音に関わった。


1971年3月、キッドは『南総里見八犬伝』を上演、4月にはその英語版『THE STORY OF EIGHT DOGS』上演のためにヨーロッパに渡った。この時、キッドと一緒にヨーロッパを旅する「キッド旅行団」を募集、キッドのメンバーと40数名の旅行団員に古澤憲吾監督率いるドキュメンタリー映画撮影班が加わった総勢80名近いメンバーでヨーロッパから北アフリカまでを縦断した。帰国早々、東由多加はユートピア運動に本格的に取りかかる。当初はユートピア建設予定地として静岡が候補にあがり、10月に上演された『新八犬伝』では、「そして静岡」と歌われていた。


「ぼくたちにとって漂流とは何か。ではなくて、ぼくたちにとっての夢見るべきロマンを捜すための漂流記。こんな時代にだって夢はある。キッド旅行団は世代共同体の幻想のユートピアである。ここでは誰もが夢見なくてはならない。そして、「ものみな夢で始まる」としたら始めよう。もちろんあなた自信のための革命をだ。あなたの想い出をふりかえらないで走り出せ。桜並木の路から、四畳半のアパートから、コーヒーショップから、オフィスから、ためらいから、そして全ての現実という名の絶望から。あなたもまた、三千年の夢を乗せて飛ぶさくらんぼユートピアの家族だ。」

(キッド旅行団/東由多加編『さくらんぼ漂流記』講談社・1971年発行より)


1972年3月には『西遊記』を上演。「第2次キッド旅行団」と共に再びヨーロッパに渡り、『西遊記』の英語版『THE MOON IS EAST THE SUN IS WEST』を上演して回った。

1972年7月、鳥取県内にさくらんぼユートピアの建設が始まる。8月には2度目のヨーロッパ公演から帰国したキッドのメンバーも参加し入村式も行われたが、程なくしてキッドは東京に戻ってくる。


「劇外劇として、若者のコミューンの生活を積み重ねていくことにぼくは強い関心をもっていた。ところが実際に”ユートピア”が実現化してみると、周囲の村落共同体の昔ながらの慣習と折り合っていかないことには、僕たちの”コミューン”が生きていけないことがわかってきたんですね。ぼく自身にしてからが、芝居をすててそこでの”生活”に没入することがついにできなかった。」

(東由多加談「朝日新聞」夕刊より)


この時の苦い経験を盛り込んだ『黄色いリボン』を年末から翌73年2月まで上演。3月末からはグアム大学の特設野外ステージで『CAPTAIN KID』を1カ月間上演、この芝居は港のアウトロー達がシージャックを企て外洋に脱出する話だった。


7月にはファッション・モデルの秋川リサを主役に『猿のカーニバル』を上演。この3作で東由多加は過去の作品の特徴だったオリエンタルな美意識から脱却し、74年には現代の東京の若者像を『ザ・シティ』に託して表現した。この作品を持ってキッドは再びニューヨークへ飛び、8月から「ラ・ママ・シアター」で上演したが、海外の観客はキッドに相変わらずオリエンタルな要素を期待したために公演は失敗、続いて行われたロンドン公演も不評のまま帰国。多くのメンバーが退団し、活動資金も底を尽き、キッドは壊滅の危機に瀕した。


「四年前に上演した『黄金バット』は日本的な素材で構成したものであり、台詞もほとんどが日本語によって語られたのに比べて、モーターサイクル族をテーマにし、ジーンズを着て、全編英語で貫かれたこの作品に対するアメリカ人の不満は、いわば当然ともいえよう。

『黄金バット』以後、ヨーロッパを巡った『八犬伝』『西遊記』など、いわゆるオリエンタルなミュージカルを外国人の観客を意識して創り出してきたのだが、この一年間は『黄色いリボン』『猿のカーニバル』など、西欧化された作品というのとは異なった意識で日本の現実からテーマを見出し、ミュージカルを発表してきたのである。しかし、この『ザ・シティ』に対する評価も批判も含めて、私たちにつきつけられたのは日本人のアイデンティティについての素朴な疑問であろう。

ニューヨークの町で『私は日本人である』と意識したとき、途方にくれて、しばらく歩き出すことができなくなってしまったのである。」

(1974年9月10日付「」毎日新聞」夕刊より)


「ぼくはこの旅を通して、ユース・カルチャーとしての『東京キッドブラザース』の役割が終わったことを確認したというわけだ。だが、ここで歌の別れを告白するつもりはない。世界中から総退却したアングリー・ヤングマンやフラワー・チルドレンや、その他の青春の無名戦士たちが避難できる場所は劇場しかないし、ぼくが情熱を賭けることができるのは『ミュージカル』しかない。」

さよならフラワー・チルドレン ぼくは中年の仲間入りをする。

(一九七五年二月十五日付「読売新聞」より)


























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